陳琳の交友?関係

○『演義』でお馴染みの人物と

・劉備と陳琳

――「袁紹の為に豫州を檄す」の仲。

 陳琳は袁紹に命じられて文を作りますが、完成した文は遥か未来まで語り継がれる名文でした。『演義』では文学に疎いとされる劉備も、多少はビビったかもしれません。劉備の目には、陳琳はどう映ったのでしょうか。


・関羽と陳琳

――なぁんか苦手な、嫌なやつ。

 陳琳にとって関羽は、官渡では味方の顔良・文醜を討ち、赤壁では華容道で上司の曹操に命乞いをさせた存在です。絶対的武力の持ち主である関羽は、筆で生きる陳琳からしたらまぁ苦手な奴だったのではないでしょうか。


・曹操と陳琳

――因縁というか、禍根のある二人。

 陳琳にとって曹操は命の恩人……と手放しで仕えられる人物ではありません。まず陳琳の故郷である徐州は、曹操の大虐殺を契機に争奪戦が始まり、多くの犠牲が出ました。また何進の死にも、臧洪の死にも、袁紹の死にも、曹操は関わっています。

曹操からしてみても、陳琳は許しがたい人物です。「為袁紹檄豫州」において曹操は、自身の「宦官の孫」というコンプレックスを抉られ、また祖父と父を罵倒されました。(古代中国は家の存続が絶対的という価値観です。)



○時の文化人と

・臧洪と陳琳

――違えた道は、重ならなかった。

 臧洪は孝に厚く、教養があり、また勇敢な義の人であると記録されています。陳琳とは同邑の友です。今の日本でいう同じ町内会の幼馴染っていう感じですかね。陳琳が常に時の実力者に仕えていたのに対し、臧洪は腐敗した朝廷が耐えられず官吏を辞めています。

二人の道が交わりそうな瞬間は度々ありました。臧洪が袁紹に反旗を翻した際も、陳琳が臧洪のもとへ降伏勧告に訪れます。しかし臧洪はこれを一蹴し、袁紹に討たれます。

共に育ち、学んできた友人でありながら、最後まで同じ景色を見ることは、叶いませんでした。


・阮瑀と陳琳

――二人は記室(プリキュア)

阮瑀と陳琳は共に名文家。曹操配下では、あらゆる文書の起草を二人で行ったとされています。しかし二人は対照的で、たとえば陳琳が常に政治の場にいたのに対し、阮瑀は長らく隠れ住んでいました。でも、意外と息ぴったりな同僚だったんじゃないかな、と勝手に思っています。


・張昭と陳琳

――郷里の秀才同士

 張昭は孫呉の名臣ですが、陳琳と同世代で、同じ徐州出身。交友もあったようです。張昭は孫策に出会うまで仕えるべきものに出会えていませんでした。青年期の張昭にとって数少ない理解者が、陳琳だったかもしれません。

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