陳琳のあしあと~都合のいい解釈編~ ※長いよ!

○徐州時代

一五五年 陳琳が名門の分家・広陵陳氏に生まれる。(一歳)

実はこの年に曹操も生まれています。せっかく一五六年前後なら曹操とタメにしちゃおうという魂胆です。陳琳にとって曹操は因縁の相手になっていきますし。

広陵陳氏は本家(?)の下邳陳氏が太守(県知事)を多く輩出しているのに対し、陳琳以前以後に名前が見えない家系です。名家の一員でありながら出世はあまり望めない境遇だったのではないでしょうか。


一六五年 臧洪と出会い、友になる。(一一歳)

臧家は陳琳と同じ広陵県射陽の、家格もなにもないヒラ官吏の家でしたが、父がこの年前後に突如朝廷に推挙され、臧洪は一躍社交界へ放り出されることになります。

臧洪はたぶん陳琳と同世代かちょっと下。ちなみに臧洪は正史『三国志』に伝が立てられている、実は当時の有名人です。


一六六年 第一次党錮の禁による官吏の大量解雇(一二歳)

ただでさえ高官が出ない広陵陳氏にとっては官吏の輩出に消極的になりそうな事件です。


一七四年 張昭と王朗の論争を臧洪と共に見物しに行く。(二〇歳)

後の孫呉・曹魏の名臣張昭と王朗は陳琳・臧洪と同世代です。後に臧洪は張昭の一族の張超に仕えていること、陳琳の「私は王朗には敵わない」という記述が残っていることから、彼らの間にはもしかしたら交友関係があったかもしれません。

また、陳琳は同郷の俊才として、この論戦への評価を述べています。四人の中では陳琳が兄貴分だったのかもしれません。


一七五年 孝廉に挙げられ出仕する。(二一歳)

これも曹操とタイミングを揃えたものです。それから張昭には二〇歳前後の時に孝廉に挙げられるも辞退したという記録があります。空いた枠が上手いこと陳琳に降ってきたのではないかという想像です。党錮の禁で出仕を半ば諦めていた、また朝廷の腐敗を知ってしまった陳琳は、どんな気持ちで洛陽へ赴いたのでしょうか。


○朝廷時代

一七九年 何進と出会い、部下になる。(二五歳)

この年に何進は妹が皇后に立てられた関係で侍中(皇帝の側近)に就任、それまで派遣されていた潁川から朝廷へやって来ます。

コネも力もない朝廷の新米官吏はまず朗(宮中の雑務担当)、または県令(村長くらいの役職)、そこで成果が出れば昇進したり中央に戻るというのがだいたいの慣習であったようです。

しかし陳琳には県令時代の記録が全く残っていません。ここから好き勝手解釈して、県令にならずに何進陣営に入ったのだと判断しました。その後何進に面と向かって諫言できるくらいには昇進するので、生え抜きってことで。しかしどんな経緯で何進のもとに就くことになったのでしょう。


一八〇年 臧洪が出仕してくる。(二六歳)

臧洪は「即丘県令になった」「霊帝の末年に辞職した」という記述があるので、霊帝がまだ元気してそうな頃に孝廉に挙げられたのかなと思います。即丘は徐州にある邑(部落)なので臧洪の場合はすぐに県令になったかもしれません。ちょっとは陳琳とご飯に行けたりしたんでしょうかね。


一八四年 黄巾の乱勃発(三〇歳)

この年、黄巾の幹部である馬元義が洛陽急襲を計画、何進軍はこれを未然に阻止して馬元義を処刑します。この処刑を機に黄巾の乱が勃発。何進はこれにより黄巾から首都洛陽を防衛するために将軍になります。

生涯に多くの従軍を経験する陳琳の、恐らく初めての従軍経験であったと考えられます。


一八九年 何進暗殺、冀州への逃走、董卓の台頭。(三五歳)

何進は袁紹ら群雄と手を結びつつ宦官の排除を計画します。隙あらば実権を狙わんとする群雄たちにそそのかされて計画を急ぐ何進を、陳琳は諫めます。が、計画は露見、何進は殺され、身の危険を感じた陳琳は冀州へ逃れます。

この後袁紹と曹操が朝廷に乗り込んで十常侍たちを皆殺しにし、隙を見た董卓が実権を握ります。こうして時代は後漢末から『演義』の世界へと移っていきます。


○冀州時代

一九一年 袁紹が冀州を攻略、陳琳は袁紹に仕える。(三七歳)

陳琳には韓馥に仕えたという記録がありません。冀州に逃げてからの二年間何やってたんですかね。


一九二年 長安で董卓殺害。(三八歳)

この年に臧洪が袁紹の推薦で青州刺史になります。一九〇年に結成された反董卓連合で袁紹と臧洪は出会い、袁紹はその才と知勇から臧洪を重用しました。袁紹が臧洪を推薦するにあたり顔を合わせた際に、もしかしたら袁紹配下の陳琳とも顔を合わせたかもしれません。


一九五年 張超の挙兵と討伐。(四一歳)

袁紹の皇帝を蔑ろにするやり方に反発し、広陵太守の張超が挙兵します。臧洪は朝廷の官吏を辞した後に張超に拾われ、反董卓連合への参加も張超の縁によるものでした。当然臧洪は張超のもとへ援軍として駆けつけようとしますが、袁紹はこれを阻止。張超は袁紹に討たれます。


一九六年 臧洪の挙兵と討伐。(四二歳)

前年の報復として今度は臧洪が挙兵。臧洪の才を愛する袁紹はなんとか臧洪を生かしたく、陳琳に降伏勧告を命じます。しかし臧洪はこれを却下、袁紹に討たれます。陳琳が書いた勧告状は現存しませんが、臧洪の返書は現在に残ります。臧洪は自身の義を説くのみならず、返書の最後に陳琳個人への批判も書きました。

「行矣孔璋! 足下徼利於境外、臧洪投命於君親。」(行け孔璋! お前は利益を境界の外に求めるが、俺は主君や親のためにこの命を投げ打つのだ。)


二〇〇年 官渡の戦いに従軍し、「為袁紹檄豫州」を制作する。(四六歳)

後に曹操へ降った際、陳琳の命を救うこととなる文です。戦いは曹操が勝利し、袁紹は敗走します。陳琳はこの時点では曹操に帰順せず、袁紹に付き従っています。


二〇二年 袁紹死去。(四八歳)

その後袁家では跡取り争いが起き、陳琳は袁尚側につきます。


二〇四年 袁尚に命じられて陳琳は曹操へ降伏を願い出るが、曹操はこれを却下した。(五〇歳)


二〇五年 袁尚が討たれ、陳琳は曹操に降伏した。(五一歳)

ここでの曹操と陳琳のやりとりは諸説あります。まず曹操は陳琳に、「何乃上及父祖邪」(父と祖父にまで言及するべきではなかった)と詰めます。(『三国志』巻二一)

対する陳琳は「琳謝罪」(『三国志』巻二一)、単に謝罪したというものもありますし、「矢在絃上不可不發」(弦にかけた矢は射ぬほか無かった)と答えた(『文選』注引「魏志」)という話もあります。

陳琳は曹操に取り立てられ司空軍謀祭酒(軍事書記官)に就任しました。


○曹操配下時代

二〇七年 烏桓討伐に従軍し「神武賦」を制作する。(五三歳)

賦とは長編の韻文のこと。陳琳の「神武賦」はこの時の戦いのさまを書いたものだとされています。戦いを記録でなく歌で表しました。

陳琳の名文家エピソードとして、その文の素晴らしさに、曹操が慢性的に苦しんでいた頭痛が消えてしまった、という話があります。


二〇八年 曹操が丞相へ昇格。陳琳は記室(書記団)の管理職に就任。赤壁の戦いに従軍、敗走。(五四歳)

盛りだくさんな年です。他に陳琳に関係がある所だけでも、荊州を攻略したことにより人材登用で同僚が増えたり、また同僚の孔融が曹操に処刑されたり。

この年以後、曹操や曹丕の出征はますます多くなり、陳琳も記室の仕事(各種文書作成)に加え、従軍記者として忙しくなります。


二一一年 曹丕が五官中郎将に就任。陳琳は門下督(市中警備監督)へ異動。(五七歳)

陳琳はどこかのタイミングで、同僚の阮瑀と共に異動になっています。阮瑀が翌年に死去するので、この年までに異動しています。所謂名誉職です。少しはハードワークから解放されたのではないでしょうか。従軍はさせられ続けますが。


二一二年 阮瑀が病により死去。(五八歳)

阮瑀は陳琳と共に記室の管理職をした名文家でした。また陳琳と同じく従軍記者として活躍しましたし、外交文書も多く担いました。

この時二歳だった彼の次男が、魏末随一の名文家、また隠者集団竹林の七賢の筆頭、阮籍です。


二一三年 王粲と荀攸が曹操に魏王就任を進言する。(五九歳)

二一六年 曹操が魏王に封ぜられる。(六二歳)

陳琳の行動ではありませんが、彼にも大きく関わる出来事です。陳琳は詩文家であり、文官でした。曹操の元で、彼の権勢の拡大を政治の方向から支えた一人です。

曹操の魏王就任は間違いなく曹魏建国の基礎であり、陳琳たち文官はその基礎固めに貢献した人物なのです。


二一七年 軍内で疫病が流行、陳琳死去。(享年六三歳)

疫病流行の発端は『三国志』巻一五、司馬朗伝に見えます。江東での戦闘中、突如疫病が流行します。江東で亡くなる者もいれば、許都に帰還した兵から感染して亡くなる者もいたのではないでしょうか。曹操はこの年に多くの部下を喪います。陳琳もその一人でした。

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