陳琳のあしあと~史書から編~

一五五年?陳琳が徐州広陵県射陽に生まれる。(一歳)

張昭伝に、同年代の人物として陳琳の名前が挙がっていたため。張昭は一五六年生まれなので、この前後でしょうか。

徐州は下邳に『演義』にも登場する陳珪・陳登がいます。陳琳はこの分家の出でしょうか。


一八四年 大将軍何進主簿となる。(三〇歳)

何進がこの年に大将軍になったため、この年までに朝廷へ出仕し、何進の部下になっていると推測されます。


一八九年 何進が殺害され、冀州へ逃亡する。(三五歳)

この時点での冀州牧は韓馥だったため、袁紹に仕え始めた正確な時期は不明です。


一九六年 臧洪の反乱に対する降伏勧告が失敗に終わる。(四二歳)

袁紹に対し宣戦布告した臧洪へ、袁紹の命で降伏勧告を行っています。少なくともこの年までには袁紹に仕えています。


二〇〇年 官渡の戦いに従軍し「為袁紹檄豫州」を制作する。(四六歳)

「豫州」とは劉備のことです。


二〇四年 曹操軍への降伏申請が拒否される。(五〇歳)

降伏申請は袁尚の命によるもの。ここから袁紹死後(二〇二年以後)は、三男袁尚に仕えていたと推測されます。


二〇五年 曹操に降る。(五一歳)

この後陳琳は司空軍謀祭酒(軍事書記官)として曹操に仕えたと記録されています。


二〇八年?記室(全般的な書記官)に異動となる。(五四歳)

この年曹操は司空から丞相へ昇進。陳琳の記室への異動の時期は明記されていませんが、上司の昇進に伴う異動だと推測しました。


二一一年?門下督(市中警備監督)に異動となる。(五七歳)

記録から、同じく記室であった阮瑀と同じ時期に異動があったと思われます。阮瑀が翌年死去すること、この年曹丕が五官中郎将となっている事から、この年であると推測しました。


二一七年 疫病により死去。(六三歳)

この年、同じ疫病により司馬朗(司馬懿兄)など多くの文官が死亡しています。

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