陳琳くんプレゼンBOOK
ほずみ
陳琳って?
「陳琳」ってどんな人?
――後漢末から『三国志』の時代まで、曹操の下などで活躍した文官・文人。詩より文章の方が得意だったようです。
後世では文章の名手と目される一方、変節の代名詞とも言われています。
○ざっくりどんなことをした人?
――あるじの鞍替えを繰り返し、最終的には曹魏建国の基盤づくりに文官として貢献した人物。
まず陳琳は時の大将軍・何進の主簿(書記官)として史書『後漢書』に登場します。当時朝廷で権勢を振るう宦官の十常侍たちの粛清を画策した何進は、逆に十常侍たちに殺されます。陳琳は自身にも十常侍の手が及ぶことを恐れ、つてを頼って冀州(現在の河北、遼寧などの一帯)に逃亡します。
次に陳琳は華北の雄・袁紹に仕えて、また書記の仕事をしました。しかし袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れ死去、残党に付き従っていた陳琳も数年後曹操軍に捕らえられます。が、陳琳の文章を読んだことのあった曹操は、その腕を認めて陳琳を許し、配下に加えます。
曹操のもとで陳琳は軍事・外交・内政などあらゆる場面での文書草案を手掛け、曹操一派、のちの曹魏の拡大に貢献。二一七年に疫病で亡くなるまで活躍し続けました。
○ざっくりどんな作品を書いた人?
――「操、贅閹遺醜、本無懿徳、僄狡鋒協、好亂樂禍。」
(曹操はイボ宦官の不細工せがれ、善徳なんざ持っちゃいないし、ずる賢くてトガってやがる、騒乱を好んで災禍を楽しむとんでもない奴だ。)
「為袁紹檄豫州」より。官渡の戦いの際、袁紹側の豫州(劉備)に起草した、檄文(発破をかける文章)の一部。シンプルに曹操の悪口です。曹操はこの文を見事だとして、後に陳琳を配下に加えます。自分の悪口を見事だと言えるの、まともな神経じゃありませんね。
現存する陳琳の文章は外交のために書かれた強気なものが多い印象を受けます。一方で、詩では春の陽気を詠んだものも。多様な作品を残した陳琳ですが、一貫して作品に強い生命力が見て取れるのが特徴です。
○ざっくりどんなところがエモい?
――何度挫折しても、いくら謗られても、言葉を武器に乱世を生き、人々の心を揺り動かしてきたところ。
陳琳は挫折の多い文人です。主君を二度喪い、また同郷の友への降伏勧告にも失敗し、死なせています。勿論乱世に困難はつきもの。しかし文官の身でこれほど戦乱と死を経験し、かつ多く作品を残している彼は三国時代でも特殊かもしれません。
また陳琳は後代、変節の代名詞として受容されます。杜甫は反乱軍に強制され仕えてしまった王維に対し「不比得陳琳(貴方は陳琳なんかのようではない)」と詠み、同じく唐代の呉融は陳琳の墓を前に「九泉何面見袁公(あの世でどのツラ下げて袁紹に会ったんだか)」と書き残しています。
しかし陳琳の文章が当時の人々の心を揺さぶったのは事実です。だからこそ曹操は陳琳を召し抱えたし、彼の詩文は一八〇〇年の時を越えて、残っているのだと思います。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます