第8話 元騎士団長は、妻に捨てられました(1)
「おまわりさん、こっちです」
女主人がドアを開けると、二人の警官が立っていた。
一人は制服を着た若い男。もうひとりは中年の熊のような男だった。
若い警官が、中年の男に中に入るよう、あごで命じた。
中年の警官は憮然とうなずき、窮屈そうにドアをくぐって中に入ってきた。
その男は巨躯だった。
身長は店の天井近くまであり、横幅はイッサクと女主人を合わせたよりも広い。
四角い顔にあご髭を無造作に伸ばし、ブラウンのスラックスとベストにネクタイを締めた、40代ぐらいの男だった。
一見するときっちりして隙がない印象だが、どこか疲れがにじみ、うらぶれた感じがした。
巨躯ではあるが背を丸め、目は澱がたまったように淀み、どうにも元気がない。
身につけているものも、どれも高級品ではあるが、よくみると靴の先に泥がついたままだったり、スラックスがよれていたり、シャツの襟元に黄色いシミが付いていたりしている。
こんなぼんやりしたやつ相手なら逃げられるかも知れない。
窮鼠のように視野が狭くなっていたイッサクは、一か八かで走り出すタイミングを見計らっていた。
だが体が動かなかった。
この警官がまとっている雰囲気が、常人のものとは全く違っていたからだ。
疲れているにも関わらず、周囲すべてに意識が向けられ、立っているだけで押しつぶされそうな圧力を放っている。
横をすり抜けるどころか、下手な動き一つできない。
この男にドアの前に立たれた時点で、逃亡は不可能だった。
イッサクは無駄な抵抗を諦めて、ぐったりと体をバーの椅子の上に放り出した。
「不審者というのは、あれですか?」
巨躯の警官が疲れた声でいい、のっそりイッサクを覗き込んできた。
イッサクも覆いかぶさる警官の顔を見上げた。
するとイッサクと警官が同時に「あ」と声を上げた。
「ネトラレ王っ」
「デスノスじゃないか。って、いま俺そんなふうに呼ばれてるのか?」
自分への蔑称がバージョンアップしていて、イッサクは複雑な表情になった。
デスノスはイッサクより一回り以上年上で、王座につく前からの旧知だった。
それなのに気が付かなかったのは、一つにはデスノスは王城詰めの騎士団団長であり、市民の通報でこんな現場にやってきて、あんな若い同僚に顎で使われるるはずがなかったこと。
もう一つは、イッサクが知っているデスノスは身だしなみに人一倍こだわる洒落男であり、また豪快な性格をしていて、こんなぼんやりとした印象ではなかった。イッサクが知っているデスノスとはまったくもって別人だった。
一方、デスノスと呼ばれた男はそれどころではない。
ここで百年の仇敵に出会ったように目を剥き、顔を紅潮させ、歯ぎしりし、閻魔のようにイッサクを見据えている。
怒りに満ちたその顔は、イッサクが知っているデスノスそのものではあった。
デスノスは女主人に振り返らず、怒りを抑えた声で言った。
「ご婦人、ご協力感謝します。この不審者は私が責任をもって絞首台に送りますゆえ、どうぞご安心ください」
「いきなり死刑はないだろっ!?」
イッサクは悲鳴をあげたが、デスノスは有無を言わさずイッサクの首根っこを掴み、アルゼンチンバックブリーカーのようにして担ぎ上げた。
「では失礼します」
デスノスはイッサクを担いだまま、女主人にまっすぐ頭を下げ、店から出ようとする。
「ちょっと待てデスノス、何があった!?なんでお前がこんなところに出張ってきた!?」
イッサクが首と腰を極められたまま、なんとか腕だけをばたつかせて喚めくと、デスノスは歩みを止めた。
「なにがあったかだと?」
イッサクを締め上げている両手に怒りがみなぎった。
いつ首と腰の骨を折られてもおかしくない。
デスノスは店を揺るがせるほどの音声で言った。
「お前のせいで何もかもが破綻したからだ!」
「はい?」
イッサクはデスノスの怒り理由がまったくわからない。それがデスノスを苛立たせ、さらに大きな声を出せた。
「お前が行方をくらませたことで、いまや王政存続が怪しい状況になっているのはわかるな」
「もちろん。選挙でラヴクラフトとミナが勝てば十中八九王政は廃絶、王室も潰されるだろうな」
「そうなれば、俺たち貴族も貴族ではなくなる」
「肩書のはなしだろ?」
「バカモン!その肩書がいかに重要か知らんわけではあるまい。貴族という称号だけで、人はよく考える必要なく、未来に信用を置くことができるだろうが」
「ん?」
「お前は幾人もの貴族から称号を奪い、我らの糧と未来の信用を奪おうとしているのだぞ!」
「んんん?」
「こんな重大事を投げ捨て、ひとり失踪するなど国王失格だ。え、わかっているのか、おまえは!?」
「……」
デスノスの言葉は理解できるし、言い分も分からないでもない。
しかしなぜこんな抽象的で婉曲的で芝居がかった物言いをするのか。
デスノスがこういう言い回しをするときは、だいたい裏にしょうもないことを隠しているときだと、付き合いの長いイッサクはよく知っていた。
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