第5話 バーの女主人とのワイドショー談義(3)

 「ぐおぉ……」とカウンターにうずくまるイッサクの頭を見下ろしながら女主人は疲れたように言った。



「興味がないなら、なんで奪うようにしてミナ様と結婚したの?」



 イッサクは左手で頭頂部を撫でながら、再び右手でスマホの画面をリズミカルに叩き始めた。



「人聞きが悪いな。婚約を決めたのは腹黒の親たちだ」



「でもラヴクラフトからすれば、あんたにミナ様を寝取られたようなもんよ。結婚した以上、やることやってるんでしょ。夫婦の営みってやつ」



 女主人がゴシップ好きな笑みを浮かべるが、イッサクは「あ、ああ」とぎこちなくうなずいてすっと顔をそらした。

 女主人は訝しげに目を細めイッサクの顔をジっと見つめた。



「なによその反応?」



「別にぃ、なにもぉ」



 イッサクの右手はリズミカルにスマホを叩き続けているが、目を合わせようとしない。女主人の目が鋭く光る。



「もしかして、してないの?」



「なにを?」



「だから夫婦の営みよ、子作りよ、セックスよ。してないの?」



 女主人は鼻息がかかる距離にまでイッサクに詰め寄ってきている。

 イッサクは上半身を器用に捻じ曲げて逃れようとするが、結局大きく息をついてからとても小さな声で言った。



「……してない」



「一度も?」



「……触ってもいない」



「マジで?!……セックスって何か知ってる?」



「知ってるよ!クズオヤジのせいで嫌っていうほどな」



「じゃあ、他の女と仲良くやってたの?」



 女主人の目が一転して、容疑者を前にした検察官のように冷たくなった。



「そんなのいるわけねーだろ」



 女主人がズビシとイッサクの下半身を指差す。



「だったら、あんたは誰を相手に、その荒ぶるお粗末さんを鎮めてきたっていうのよ」



「お粗末さんいうなや。ろくに見たこともないくせに」



「なに言ってんのよ。あんたが転がり込んできた時に、これでもかってご笑覧してやったわ」



「そういえばそうでしたね」



「裸のまま血まみれだったあんたを寝室に担ぎ込んで体を拭いて、応急処置をしたのは誰だったかしら?」



「その節はおせわになりました。マダムは俺の命の恩人です。この恩は一生忘れません。本当にありがとうございました。そういえば昨日テレビでやってたんだけどさ……」



「で、誰とヤッてたの」



 女主人はイッサクの誘導には載らず、正面から見据えている。

 仰ぎ見たその姿は裁きを下そうとする美しい大母神にも見え、こうなっては姑息な話術や誤魔化しは無意味。

 正直に答えないとかえって激しい怒りを買う。

 観念したイッサクは、スマホを置くと肘をついてそっぽを向いて言った。



「童貞だよ。まだ俺は」



「ドウ……テイ?」



 女主人は音声認識に失敗したロボットのようにかくっと首を傾けて止まってしまった。

 イッサクも口をつぐむ。

 奇妙な気まずさと沈黙がしばし二人の間に横たわった。



「ドウテイって、有名な文学作品の?」



 フリーズから立ち直った女主人に、イッサクは不機嫌に答える。



「自分のことを文学作品に例えるほど自惚れてねーよ」



「じゃあ師匠について技術を身につける……」



「それは徒弟」



「鉄板でバラ肉と卵を」



「それはとん平焼き……ってなんだよ!?『俺、とん平焼きなんだ』ってどんな自意識だよ!?わざとか、わざとやっているのか!?」



 イッサクは気まずさと恥ずかしさを誤魔化すのに、わざと強めにツッコミを入れるも、女主人の方はまだ驚きと疑いで目を丸くしたままだ。



「いやいや、だってあり得ないでしょう?妃を娶った国王が童貞だったなんて。あんたたち結婚して何年よ?」



「5年」



「歳は?」



「俺が27。ミナが22」



「じゃあ世継ぎがまだいない理由って」



「そういうこと。ラヴクラフトとの子ならすぐだろうけど」



 このときイッサクは、自分が殺されかけた理由はそれかもしれないと考えた。

 国王が健在のままミナがラヴクラフトの子供を身籠ったとなると、大問題だ。

 当然ラヴクラフトの立場も危うくなる。

 天からの授かり物が理由だったなら、殺害のタイミングなど選んでいられなかっただろう。



「ないわー。5年も若い嫁に触ってないなんてないわー。そりゃ他に男ができても文句言えないわー」



 女主人は黒くウェーブした髪を大きく揺らして首を振って、信じられないという感情を全身で表現しながらあとずさり、カウンターの下からスマホを取り出し、ゴシップが多めの新聞の「求むトクダネ!」の広告に添えられた番号を見て素早く指を動かした。



「もしもし、わたし聞いたんです!

 童貞です!前の国王は童貞なんです!

 ミナ様に童貞臭い人とは一緒に寝られませんと言われたんです。

 一度も寝室を共にしたことがない童貞だったんだって、わたし聞いたんです!」



「ヤメテ!ゴシップ紙に尾ひれをつけて個人情報曝露するのヤメテ!

 みんな信じちゃうから!

 明日から外歩けなくなっちゃうから!

 お願いだからヤメテ!!」



 イッサクは悲鳴をあげて女主人からスマホを取り上げようとする。

 女主人はイッサクの顔を押し返しながら耳からスマホを離した。



「冗談よ。こんな話、誰も信じなくてゴシップにもならないわ。

 それにネタならもっといいのがあるからね」



「ネタ?」



「ま、それはこっちの話。

 あんたがミナ様を寝取られてもヘラヘラしている理由ってそれかしらね」



「童貞の何が悪い」



「いいと思ってるの?」



「童貞はいいぞ。ピュアで夢見がちでヤリチンにならない。

 執着は苦を生むが、童貞はセックスに執着しない。

 つまり童貞はニルヴァーナだ」



「バカ。妃を寝取られて没落してるんだから、百害あって一利なしよ」



 ピシャリと女主人に言われると、イッサクは口をとがらせて黙ってしまい、再びスマホの画面をリズミカルに叩き始めた。

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