第3話

 触り始めたのは数ヶ月前に起きた大きなクレームのあとで、その時は誰にもぶつけられない怒りを感じていた。客にも、同僚にも、上司にも直接的にあるいは間接的に「お前が悪い」と糾弾された。

 「なんでわたしが」は「お前が悪い」と周辺から徐々に混じっていって、「なんでわたしが悪い?」へと変わっていった。いつも眺めるオフィスの景色がちくちくと頭の後ろの方を刺激する。怒りの極彩色が諦めの白になるには一体どれくらいの時間がいるのだろう。感情は一度色が付けば際限なく色を生み出し続けるパレットのようだった。色は色と重なってはその形を変えていき、わたしでは追うことも消すこともできなかった。ここには色を掻き出す筆もない。

 その場から消える理由が欲しくて、そっと鞄の中の下剤を飲んだ。便秘は思春期からの日常茶飯事だった。他のスタッフたちもわたしがいない方が楽に毒を吐ける。ウィンウィンだと思った。その時は。

 10分後わたしはひとり誰もいない階のトイレで腹痛に喘いでいた。

 痛い。

 クソを撒き散らす負け犬――

 そんな言葉が浮かんだ。情けなさというよりは、相変わらず怒りが勝っている。職場は一番弱いものが誰かの怒りの責任を取るシステムがいつも正常に稼働していた。折れなければ誰かが同じような目にあっていたかもしれない。今日はわたしが折れた。折れなければよかった。いつもと同じように飲んでいるはずなのに、薬が一段とよく作用している感じがする。諸々の後悔は腹の肉を皮ごとナイフで切り裂いてこねくり回すような激痛ですぐに消えていった。

 脂汗が薄手のシャツを侵食し切る少し前に下剤の効果は切れ、放心状態でウォシュレットを起動した。今頃あいつら何してるんだろう。同僚の顔が浮かび、顔のないクレーマーの声が脳内に響いた。苛々が頂点に達する。その時だった。うなだれて便器の上で前かがみになると、いつも当たらない位置に水が当たって、「わ」と声が漏れた。ウォシュレットの操作盤に手を伸ばす。数秒を数時間に感じていたいようなむずむずした感触が下半身にあった。弱…じゃく…あ、強。勢いを変えるたび、脳内のストレッサーがひとつひとつ消えていき、次第に物理的な質感を伴った「あ」という響きがこだましていった。あ。

 気がつくとわたしは家のリビングでするのと同じように自慰していた。

 その後、体調不良を理由に早退した。

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