合流 10


     10


 頭上の扉から射しこむ光に、拓也は目を細めた。

 ただの蛍光灯の光が、闇慣れた目には眩しい。

 梯子の崩壊がようやく治まってから、崩壊する前になんとか隙間を開けた十八階の扉を見上げている内、もしかしたらスマホの電波が届くのではないかと考えたのだが、当たっていたようだ。

 しかし、ここで油断してはいけない――。

 麻田真弓が引きこまれた時の状況を想えば、父親が用意できる脱出手段はおそらくロープ、良くても縄梯子程度だろう。安堵に身を任せ、詰めを怠ってはいけない。背中の真弓が今もしっかり固定されているか、拓也は改めて確認した。自分の腕と脚は、しばらく休んでいたおかげで、なんとか力が戻っている。

 実際には、限界を超えた体力と認知能力を、脳内麻薬のアドレナリンが補っているだけなのだが、拓也自身は気づいていない。

 これなら大丈夫――。

 そう確信して、上から届く助力を待ち構える。

 ロープでも縄梯子でもない、何か白いハンカチのような物が、扉から舞い降りてきた。

 その四角い布は、こちらに近づくにつれて、予想外のサイズに広がってゆく。どう見ても、扉より遙かに大きい。それ自体がサイズを変えているとしか思えない。

 ほどなく拓也は、その白い物が布ではない事に気づいた。

 生物なのである。

 その生物は、扉と拓也の半ばあたりで、翼のような左右の薄膜をしなやかに波打たせながら、上下の向きを変えた。

 それから、優雅なほどにゆったりと、拓也の背後に沈んでくる。

 客観的に見れば、体長4メートルほどもある白いムササビ、そんな生き物なのだろう。

 しかし拓也は、その巨大な白い生物から、なぜか3センチにも満たぬクリオネを連想していた。形はけして似ていないが、白い皮膜をゆらゆらと波打たせながら闇の宙を降りてくる姿には、子供の頃、旅先の水族館の水槽を漂っていた『流氷の天使』たちのような、いっさいの不純を窺わせない存在感があった。

 やがて拓也とトビメ、双方の目が合った。

 トビメは拓也の目に、何か遠い過去の残像を見ていた。こんな男の目を、最後に見たのはいつだったろう。必ずしも正義を為そうとしている目ではない。といって悪事を為そうとしている目でもない、己自身とこの世の在りように、ただ相応しい道を求めている男の瞳――そんな瞳をしている男は、まだこの国が一つになっていなかった古い時代に、ほんの一人か二人を見かけたのが最後ではなかったか。

 ちなみにトビメが腕と脚の間に広げている翼のような皮膜は、けして物理的に飛翔するための器官ではない。あくまで自分が宙を舞えることの表象である。遠い昔、美津江刀自の祖先が一匹のオコジョを見こんで式神に育て上げた時、そのオコジョが鳥に親しんでいたら、鷲や鷹のような凜々しい翼を生やしただろう。しかしオコジョには、鳥に対する敵意しかなかった。だから、森のライバルたちの中でも常々その滑空を羨ましいと思っていた、ムササビの皮膜を選んだのである。

 拓也が声も出せずに白い生物の瞳を見入っていると、その生物の肩から、同じ顔、しかしずいぶんちっぽけな顔が、ちょこんと突き出した。

「おぬしが拓也か。我らの姿が見えるようだな。あの親父殿の子なら不思議はない。なんにせよ、仕事が楽でよい」

 オコジョそっくりの顔からは想像もできない、バリトンに近い声だった。

 なお言葉を返せないでいる拓也に、頭上から父親の声が届いた。

「大丈夫! 彼の言うとおりにしろ!」

 この不可思議な動物を、父親は『彼』と呼んでいる。ならば人間の男、しかも対等かそれ以上の存在と認めていることになる。

 何事も寛容すぎるほどの父親は、なぜか常に賢明な判断を下せる父親でもあった。いわゆる親子の情愛には疎い拓也も、その点では父親に全幅の信頼を置いている。

「いい親父殿ではないか。ずいぶん変わり者だが、おぬしも相応の変わり者と見た」

 白いオコジョは、人間なみの豊かな表情で、にやりと笑った。

「我らを疑うな。常ならぬ者に正邪や敵味方を問うても無益。おぬしがこの穴の底で見たという、異形の者たちも同じ事よ。おぬしはただ己の耳目と心を信じればよい。誰にでも見える者や誰にでも聞こえる声にばかり囚われていると、道を誤るぞ。とくに変わり者はな」

「……そうかもしれない」

 自分で思うほど呂律ろれつが回っていないのは、拓也にも自覚できた。

 白いオコジョが、険しい顔になった。

「自分がどんな顔色をしているかわかるか。赤いのか青いのか俺にもわからぬ。強いて言えば紫色だ。ここは我らに任せて、遠慮なく気を失え。無理に気を張っていると、おぬし、死ぬやもしれぬぞ」

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