合流 8
8
正体不明の閉鎖空間が、この超高層ビルを地下から屋上まで貫いている――。
現在の昇降手段は一筋の梯子だけ、しかも途中で崩壊している――。
その穴の底では、七年前に行方を絶った佐伯康成のみならず、彼の妻子、さらに数多の人々が死にながら生き続けている――。
息子の話を聞いて、哀川教授の不安はますます深まったが、少なくとも現在、これ以上梯子が崩壊する兆しはないらしい。昇る手段を絶たれた拓也と、背中で眠り続ける麻田真弓も、当分は現状を維持できそうだった。
「必ず迎えに行く! そこから動くな!」
『……うん……待ってる……』
いったん息子との通話を切り上げた哀川教授に、吉田が訊ねた。
「あなたのスマホで、拓也君のスマホをGPS追跡できますか?」
「確かファミリー契約の時、非常時を考えて、家族三人ともアプリを入れたはずだ。私は最初に設定して以来、一度も使ったことはないが」
「電話が繋がったからには、そちらも有効のはずです」
哀川教授は、すぐにアプリを立ち上げた。
「――間違いない。このビルのどこかにいる。しかし階数は確認のしようがない」
アプリがそこまで対応していないのか、この場所ではGPS衛星の補足基数が足りないのか――いずれにせよ吉田は、次の手段に移った。
「恐縮ですが、あなたのスマホを貸していただけますか? それと、拓也君のIPアドレスや個人情報の一部を、某所のサーバーにアップロードしてよろしいですか? もちろん一般のネットには流出しません。むしろネット犯罪を監視する立場のサーバーですから」
「お任せする。よろしく頼む」
「ありがとうございます」
吉田は哀川教授のスマホを受け取ると、USBケーブルで自分のスマホに繋ぎ、何やら操作し始めた。
映画に登場するCIAばりの手際に、兵藤は思わず訊ねた。
「あなたはホワイトハッカーの方ですか? それとも公安調査室関係の――」
兵藤の知る限り、国内ではそれらの関係者に手際が似ている。
「いや、ただの風来坊だ」
操作に忙しい吉田に代わり、慎太郎が補足した。
「以前、宮城県警にいらっしゃったそうです。その後も、長くセキュリティー関係の仕事を」
「なるほど……」
兵藤は感心しきりの顔をしていた。俺も記者として、この種の技を習得しなければ――。
やがて吉田が言った。
「――拓也君のスマホの電波は、現在、蔦沼市教のWi―Fiが拾ってます。つまり拓也君は100パーセントこのフロアにいます。私の勘では、十中八九この部屋の中でしょう。正確には、その謎の空間に繋がる扉が、この奥に存在しているということです」
慎太郎の額で、
「行くか? こんな扉はすぐ破れる」
「いや、待て。やっぱり、それじゃ目立ちすぎる」
慎太郎は冷静に状況を判断し、
「中で何が起きるか判らない。すぐに助け出せるとも限らない。当分は外から見つからないようにしないと。お前が入れる程度の小穴を開けて、中からロックを解除してくれ」
「なんだ、鼠の真似事かよ」
「もっと縮んでもいいぞ。できれば白蟻くらいに」
「さすがの俺も白蟻は無理だ。アフリカチビネズミではどうだ? こないだテレビで見た奴は、五百円玉よりもちっぽけであったぞ」
「それでいい」
慎太郎はかがみこんで、扉の下側の、木彫の装飾に紛れて目立たないあたりに目星をつけた。
「この段差の下から囓れ」
「おうよ」
慎太郎の頭から抜けだした管生は、すでに胴回りが五百円玉より細く、鼠というより寸足らずの白蛇のように縮んでいた。
管生の姿が見えない三人にも、管生が扉を囓る音は聞こえるし、床にこぼれる木屑も見える。その木屑を、慎太郎が爪先で払う。
青山裕一が、後ろから
「あの、いいですか?」
「うん?」
「もう立派に目立っちゃってますよ。あっちの通路ならともかく、この角だと」
裕一は、斜め後ろの市教ロビーを気にしながら、
「今、俺の同級生が中に入ってって、こっち見て変な顔してました。たぶん次の番の奴です。俺一人だったら、たぶん何か言ってきてます」
斎実は裕一に頬笑んで、
「ありがと。見かけによらず、君、しっかりしてるね」
美形の萌え巫女に褒められ、裕一は顔を赤くしている。
「そっち方向は、あたしに任せて」
斎実は、ドアの前にわだかまっている一同を包括するように腕を広げ、小声で何言か唱呪した。
「――はい、これで人目は心配ないわ」
実際、市教職員らしい女性がロビーからエレベーター方向に歩いて行ったが、すぐ斜め前にいる一団には目もくれなかった。
裕一は尊敬の眼差しで、
「もしか陰陽師みたいに、呪文で俺たちの姿を消したとか?」
「まさか。この場の人の気を、外の人の気と交わらないようにしただけ。あなただって、道で知らない人とすれ違っても、いちいち正体とか気にしないでしょ?」
「なんかよくわかんないけど、すごいっすね」
そんな会話を聞きながら、哀川教授が慎太郎に訊ねた。
「これが
息子の居所と状況が知れて気が落ち着いたのか、哀川教授は民族学者らしい顔を取り戻していた。
「私には『シャルベ・ヌグ・トンゾ』と聞こえたんだが」
「実は僕も知りません。唱呪も
「『しゃるべぬぐとんぞ』だよ」
「どんな意味なんだ?」
「実は私も知らないの。気配を消したい時はそう唱えろと、お母さんに教わっただけだから」
哀川教授が二人に言った。
「君たちのルーツは、
「ウデヘ?」
「北方ツングース諸語圏の少数民族だ。昔、ロシアから満州にかけて少数民族のシャーマンを調査をした時に、彼らの部落を訪ねたんだ。斎実君の今の唱呪は、ウデヘ語そのものじゃないが、ほぼそれに近い」
「どんな意味なんですか?」
「『雪原のオコジョの如く』――そんなところかな」
なるほど、白一色の中に冬毛のオコジョがいても、誰も気づかないだろう。
「私も私の仕事をしてこよう」
哀川教授は、市教のロビーを振り返って言った。
「途中で邪魔が入るとしたら、まずは教育長だ。彼がここに戻って来たら、知らぬ存ぜぬじゃ済まない。ちょっと予定を確認してくる」
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