合流 7


     7


 哀川教授は、通路のなかばで足を止めた。

 他の面々も、彼を囲む。

 哀川教授は杉戸伸次に訊ねた。

「君の話だと、この通路の横に扉があったんだね?」

 伸次は一旦うなずいたが、自信はなさそうだった。現に通路の左右には、一つも扉がないのである。

「左の壁の向こうは、イベント・スペースになってる。この通路側に扉はないが、エレベーター・ホールから正面の通路に進めば、誰でも自由に出入りできる。だから、君が本当に怪奇現象に遭遇したとすれば、それは右側の壁の中ということになる」

 伸次は何度も四方を見渡した。

 しかし、元来たエレベーターの方向や、先に見える教育委員会への入り口を見る限り、やはり右の壁に扉があったとしか思えない。

 斎実ときみと慎太郎は、壁を見つめながら辺りを探っている。

 吉田は通路の天井に防犯カメラが設置されていないか確認した。

 ここまでの経路には防災機器と同じ頻度で見受けられたし、先刻のエレベーター・ホールにも設置されていた。この通路まで警備員室のモニターに表示されているなら、壁を相手にわだかまっている多人数は、いかにも怪しい。万一警備員が確認に現れても、哀川教授がいれば申し訳は立つだろうが、この状況で余分な手間は避けたかった。

 幸い市教フロアの通路には、それらしい監視機器は見当たらない。

 やがて斎実が、鼻を手で覆いながら皆を呼んだ。

「この辺りの奥に、何かあります」

「そうなのか?」

 吉田が問うと、慎太郎もうなずき、

「はい。間違いなくはくですね。今もけっこう壁から浸み出してます。たぶん以前からずっと漏れ続けて、どこかの窓から、ビルの外周まで漏れだしたんでしょう」

 斎実と慎太郎には、その部分の壁に広がる黒ずんだ染みと、うっすら漂う濁色の霧が見えていた。はく特有の、腐った卵のような異臭も感じる。

「でも、さっき感じたほど、匂いがきつくないみたい」

「そうだな。思ったより勢いがない」

 意外そうに言う二人に、慎太郎の額の管生くだしょうは、

「しかし匂いのたちは、ひどく悪いぞ。恐ろしく煮詰まっておる。俺でさえ食いたくないほどの古物ぞ」

 他の面々には、壁の染みも匂いも認識できない。そもそも伸次と裕一と兵藤の三人には、慎太郎の額から顔を出している管生や、斎実の肩で毛を逆立てているトビメさえ、まったく見えていないのである。

 兵藤が慎太郎に訊ねた。

「ハクって、いわゆる魂魄こんぱくの『はく』のことかい?」

「よく御存知ですね」

「確か人の霊魂の片割れで、地獄に落ちる方の奴だろう?」

「はい。でも、みんな素直に落ちてくれればいいんですが、けっこう落ち損ねて地上に残り、色々とをするはくがあります。場合によっては、まだ生きている人から外にこぼれ出して、周りをけがすことも」

 哀川教授が首を傾げ、

「この壁の奥か――何の部屋だったかな」

 すると兵藤が、すかさずスマホを手にして、

「お任せください。見取図があります」

 彼にとっては、名誉挽回のいいチャンスだ。ショルダーバッグに入れたノートパソコンのデータは、クラウド経由でスマホでも呼び出せる。

 兵藤が指でスワイプする詳細な警備用見取図に、他の全員が感心して見入った。

 吉田も、エレベーター・ホール以外は市教ロビーとイベント・スペースしか防犯カメラがカバーしていないのを確認でき、兵藤記者の知見を再評価した。さすが一流誌の記者、使える人材だ――。

「この裏は、教育長室付属のラーニングルームですね」

「そうか――」

 哀川教授も得心し、

「先の角を横に折れると、すぐに先に教育長室がある。島田教育長とは、私もたびたび顔を合わせた。デスク前のソファーで話をしただけだが、確か、奥に研修室のようなスペースがあると聞いたことがある。それがちょうど、この壁の向こう側あたりか」

 吉田は眉をひそめ、

「しかし教育長といえば、教育委員会の最高責任者でしょう。そんなお偉いさんの部屋に、なぜそんな得体の知れない代物が?」

 裕一が、兵藤を肘でつついた。

 やっぱり他にもゾンビいるんだ――そんな顔である。

 兵藤はうなずき、他の面々に、

「すみません。皆さん、ちょっと、これを見てください」

 スマホに例の動画を呼び出して、チェックしておいたフレームを表示する。

「昼前に、この青山君が撮影した市教の聴聞ヒアリングの映像なんですが……」

 聴聞中の市教職員たちのスチル映像から、例の異様な姿をピンチアウトする。

「皆さんがおっしゃるゾンビ、あるいは歩く屍――それは、こんな代物しろものですか?」

 伸次が、わ、と声をあげた。

 斎実は、すでにその画像の存在と撮られた経緯を察していたが、そこまで鮮明に視認したわけではない。思わず慎太郎にすがりつき、慎太郎もしっかり抱える。

「この異様な代物は、本来なら学校指導課長のはずなんです。青山君にも、ちゃんと人間に見えていたそうです。それが、なぜか動画の一部だけ、こんな姿に――」

 吉田が伸次に訊ねた。

「君が見た中に、こいつもいたかい?」

「……わかりません。もっとひどいのも、まだマシなのも色々いたんで……」

 哀川教授が、何も言わずに、いきなり駆けだした。

 通路の先の市教ロビーではなく、その手前の角を右に曲がり、すぐ右手に位置する扉に飛びつく。

 生活のほとんどを学究に費やす彼は、近年のホラー映画など見たことがなかった。ゾンビという言葉を聞いても、想像できるのは、古い映画のラバーを用いた特殊メイク程度だった。それが今、初めてリアルな生物なまものとしてのビジュアルを実感したのである。

 あんな死骸の群れが子供たちを襲ったのか? 杉戸伸次は逃げおおせたが、池川光史や犬木茉莉は行方不明――まさか自分の息子も?

 ドアノブを激しく回し続けるが、扉はロックされており微動だにしない。

 後ろから駆けつけた斎実と慎太郎は、ドアの現状に息を呑んだ。

『教育長室』と仰々しいプレートが掲げられた、重厚な木彫扉の四方から、おびただしいはくが漏れ出している。横の通路で壁から染み出していた霧の比ではない。このタワービルを峠から遠望した時のような、漆黒に近い煙である。

「こっちが出所でどころの本命か……」

 つぶやく慎太郎に、額の管生が言った。

「突っこむか? この上等なかしの扉なら、喜んで食い破るぞ」

 慎太郎は、ドアノブを揺すり続けている哀川教授に言った。

「離れてください。なんとかします」

 すぐ近くに人のいるロビーがあるので、大声は出せない。

 哀川教授も我に返って、音を立てるのを止めた。

 その時、哀川教授のアウトドア・ベストのポケットで、スマホが震動した。

 通常電話の着信である。

 哀川教授は息を静め、スマホの表示を検めた。

「――拓也?」

 皆が哀川教授とスマホに注目する。

 哀川教授は、タップする指ももどかしく、叫ぶように呼びかけた。

「おい、拓也!」

 数瞬の間を置いて、息子の声が返った。

『……父さん……よかった……』

「拓也、無事か? 今どこだ?」

『……タワービルの十八階……いや、たぶん十八階と十七階の間……あまり無事じゃない』

「間ってなんだ? エレベーターか? 非常階段か?」

『いや、梯子はしごの途中……非常梯子が崩れて……』

 いつも理路整然と物を言う息子らしくない、疲れきった声だった。

『本当は……どこなんだろうな、ここって……』





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