合流 4-2

 拓也は、さほど失望しなかった。

 この謎の空間が、外のフロアとお出入り自由で繋がっているなら、とうの昔に、誰かに発見されている。

 しかし――肝腎の十八階のドアも、同じように封印されていたら――本当に、この穴から外に出られるのだろうか。

 拓也は、そんな疑念を頭から払った。

 自分も真弓も、あの江口も、現に十八階から、この穴の底に引きこまれたのである。物理的な出入口が、最悪でも一つは存在するはずだ――。

 小休止したおかげか、足に力が戻っていた。

 拓也は気を取りなおして、再び上を目指し始めた。


 雑念を払い、小休止の要領を体で覚えると、登るペースは落ちたが、確実に歩数を稼げた。

 すでに地上十階を過ぎ、来た道よりも行く道の方が短くなった。

 三つの鬼火は、拓也たちの挙動が気になるのか、ずっと周囲を漂っている。ときおり拓也の顔や体を掠めると、コンパクトファンの何倍も心地よい。

 これなら行けそうだ――そう油断したとたん、拓也はトラップを踏んだ。

 左足を踏ん張り、右足を一段上に掛けたとたん、加重が集中した左足の横桟よこざんの片側が、いきなり支柱からちぎれたのである。

 反射的に両手と右足を駆使して落下は免れたが、動悸を静めるのに数分を要した。

 拓也は自分の理性が、かつてなく衰えているのを痛感していた。

 雑念は払っても、思考や知覚まで鈍らせてはいけない――。

 思えば、今ちぎれた横桟は、まだ顔の前にあった時点で、妙に汚れていた気がする。あれは江崎の血肉だったのかもしれない。先ほど、佐伯家の偽りの団欒を粉砕した、江崎の墜落死体――天井が破れる前、頭上から響いた金属と弾性体の衝突音は、江崎が落下する途中で梯子に絡まり、あちこちの骨を折る音だったのかもしれない。

 あの音は、何回聞こえただろう――。

 正確な記憶はないが、複数回だったのは確かだ。

 故意に仕掛けられたわけではないランダムなトラップに用心しながら、拓也は慎重に慎重を重ね、黙々と手足を運んだ。

 十四階――。

 十五階――。

 十六階――。

 目標が近づくたびに、楽観を抑えて気を引き締める。

 やがて十八階のドアが間近に見えてくると、拓也は目を凝らし、その片端を検めた。

 鬼火たちは、まだ拓也の周囲に纏わっている。その僅かな青い光だけで充分明るく見えるほど、拓也の目は、すでに暗さに慣れていた。

 壁材の盛り上がりではない、確かなドアノブの輝きが見える。片手を伸ばせば届く位置である。

 やはり、この階だけは外界に繋がっているのだ――。

 左手と両足をしっかり梯子に絡ませ、拓也は利き手の指をドアノブに伸ばした。

 ノブは楽に回った。

 かたり、とロックが外れる音が響き、ドア自体が奥に沈む。

 隙間から光は漏れてこないが、ドアの直後に、開かれた空間があるのは明らかだった。

 あえて、さらに気を引き締め、そろそろとノブを押しこんだ時――。

 みしり、と梯子の上部が揺らいだ。

 直後、真弓を背負った拓也ごと、梯子は背後に傾いて。小刻みに壁を離れ始めた。

「――え?」

 自失しそうな驚愕を、持ち前の理性で抑える。

 この階だけが、外界との物理的な通路に使われているなら、底で暮らしていた無数の死骸たちも、この太からぬ非常梯子の、ここから下だけを使ったはずなのである。皆が皆、大人しく下ったとは限らない。江崎などは死に物狂いで暴れながら、梯子に負荷を与えたはずだ。

 背後に傾きを増しながら、拓也は梯子の先を見定めた。案の定、左右の支柱が不規則にちぎれていた。その支柱を壁に固定していたビスは、上から順に次々と、コンクリートの破片を散らしながら抜け落ちてゆく。

 ドアの隙間に飛びつくのは、すでに不可能だった。

 今は物理的法則に従うしかない――。

 拓也は瞬時に決断した。

 崩壊しつつある非常梯子を、できる限りの速さで逆に下る。黙って墜落するつもりはない。重心が下がれば崩壊は止まる理屈だ。

 拓也と真弓が赦されるのか、あるいは罰を受けるのか――それはすでに沙耶の父親の斟酌しんしゃくではなく、ニュートン力学が決めることだった。

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