合流 4-1


     4


 たとえ何十階分の梯子はしごでも、登り続ければ道は開ける――。

 そう信じる事が、すでに哀川拓也には難しくなっていた。

 闇雲に登り続けているわけではない。蔦沼タワービル全体の高さと階数から、一階あたりの高さを割り出し、梯子の段数を数えている。この梯子が、法令で定められた避難梯子の技術規格の最大値で設計されていることは、自分の下腕との比較から確認できていた。

 今は四階分の地下を抜けて、ようやく地上二階に差し掛かっている。目標の地上十八階まで、まだ三分の一も進んでいない。なのに、足が鉛のように重い。

 普段から体は鍛えていたはずである。体脂肪を最低限に保ち、筋肉量を増やすよう努めている。といってボディービルダーのような、これ見よがしの体は欲しくない。結果、アクション俳優に例えれば、夭逝する直前のブルース・リーのような、いわゆる細マッチョに仕上がっている。しかし、やはり無理があったようだ。瞬発力と技の速さで空手の試合には勝てても、長時間戦うには持久力が足りない。

 背中の真弓は、ときおり微かに身じろぎしている。佐伯康成が言った通り、眠っているだけで怪我を負った様子はない。なんとしても、健やかなまま外界に連れ戻さねばならない。

 無限に続く深井戸のような、この仄暗い縦穴から外の世界に戻れたら、まず持久力を鍛えよう――そう拓也は決意していた。見栄えのいいスポーツクライミングよりも、新田次郎の山岳小説に登場する強力ごうりきのような鍛錬を――そこまでは無理でも、意識を失った少女を背負って、着実に地上十八階まで非常梯子を登れる程度の肉体を――。

 しかし今は、気力が頼りだ。

 ほとんど意志の力だけで手足を動かし続けていると、ふと、梯子のすぐ横に、扉のような窪みがあることに気づいた。

 もしもこの縦穴が、本来はエレベーターシャフト、あるいは全階のパイプやケーブルを集約するための構造物だとしたら、各階に点検用の扉があっても不思議はない。

 万一の可能性に賭けて、拓也はいったん立ち止まり、荒い息を整えた。

 全身から吹き出す汗で、すぐには片手を横に伸ばす気になれない。また周囲が暗いため、それがドアなのか単なる窪みなのかも判然としない。

 しばらく息を整えていると、上階から青白い微かな光が、揺らめきながら近づいてきた。

 穴の底から見上げた時、彼方に飛び交っていたおびただしい鬼火――その三つほどが、拓也の周りに下りてきている。意志ある存在なのか定かではないが、この妙な人間たちはいったい何をしているのだ、そんな、拓也と真弓に対する好奇心を宿しているようにも見えた。

「やあ」

 我ながら馬鹿げていると自嘲しながら、拓也は鬼火たちに声をかけた。

「君たちが羨ましい。僕も飛べるものなら飛びたいところだ」

 鬼火たちは驚いたように退いて、拓也の周囲を遠巻きに浮遊していたが、しばらくすると、また遠慮がちに近づいてきた。

 その一つが、拓也の顔をかすめた。

 拓也の火照った頬から、一瞬、冷水を浴びたように汗が引いた。

 冷たい炎なら冷房に使える――出発前に自分で言った軽口が、事実であることに気づく。

 あまつさえ文字通り、照明代わりにもなっている。

 梯子のすぐ横で、青白い光を受けているのは、明らかにスチール製の扉だった。

 ただ、ノブがない。

 ノブがあるべき部分には、コンクリートか補強用のパテのような灰色の半球が、こんもりと盛り上がっているだけだった。

 拓也は片腕を梯子にしっかり絡ませ、片手で扉の端を押してみた。

 残念ながら、微動だにしない。

 試しに軽く叩いてみると、ドアだけの軽い反響ではなく、反響しない固体の存在を、その奥に感じた。

 つまり、ノブの部品を取り除いた上で、あちら側から壁ごと塗り直し、ドアの存在を隠したらしい。その壁材が、ノブを取り除いた跡の小穴から、こちら側に漏れ出して固まったのである。

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