錯綜 3
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哀川拓也が、佐伯家の玄関口から小庭の敷石に一歩踏み出すと、周囲の光景は、瞬く間に変貌した。
昭和じみた市役所職員官舎の平屋も、周囲の路地も仄暗い闇に溶けるように消え失せ、四方をコンクリート壁に囲まれた、広からぬ穴の底に戻る。
横の壁には、錆びて汚れてはいるがまだまだ堅牢そうな、例の非常梯子が底まで届いている。
そして梯子の先を見上げれば、頭上遙か、無数の人魂が飛び交う薄闇が、どこまでも続いている。
佐伯家そのものや懐かしい町並みが、ことごとく佐伯康成の見せた幻であるにしろ、この狭い地の底に、今まで見た全ての死者たちが収まっているのはいかにも無理がある――そう拓也は思っていた。現に、拓也を見送っている佐伯一家は別状、その背後に立っている死者たちの頭数は、先ほど台所に控えていた集団より明らかに少ない。
さらに今、拓也が背負っている急ごしらえのキャリーボーン――麻田真弓を運び上げるため、木材と縄で組み上げた簡略な
そもそも現状の全てが、佐伯康成によるイリュージョンなのではないか――。
合理主義者の拓也には、そんな疑問が拭えなかった。
しかし、ふと見れば、この狭い地の底の中央付近に、どうやらもう一つの穴があるらしい。あらかじめ設えられた穴ではなく、強いて言えば、先ほど佐伯家の天井に生じた穴のように、崩れて開いた不定形の穴である。ならば、この空間には、さらに隠された地下空間が広がっており、そこに彼らの真の住まいが存在するのか――。
「大丈夫かい?」
拓也の黙考を逡巡と勘違いしたのか、佐伯康成が訊ねた。
「やっぱり重量オーバーかな?」
康成は座敷で団欒していた時と同じ、くつろいだ浴衣姿である。
その言葉も、親身な気遣いの言葉に聞こえる。
しかし優しげな目元の眼奥を凝視すれば、別の本意が読めるのかもしれない。
それでも拓也は、あえて先ほどの決意を優先した。
「いえ、平気です」
念のため、背負ったキャリーボーンを揺すってみる。
拓也と背中合わせに固定された麻田真弓は、ぐったりと眠ったままだが、しっかりと木組みに固定され、多少の揺れでは落ちる心配がない。万一を考えて、予備の縄も準備してある。
自分のバックパックは、重量を考慮して置き去りにした。ノートやテキストなど幾らでも補充できるし、最新のノートパソコンは価格的に痛いが、大切なデータは自宅のSSDとクラウドにも保存してある。
私物は財布とスマホだけで充分だ。
そう、麻田真弓さえ、無事に外の世界に連れ戻せば――。
「それでは、失礼します」
拓也は佐伯夫妻に頭を下げた。
そして最後に、佐伯沙耶と目を合わせる。
――じゃあ、佐伯さん、さよなら。
――さよなら……ごめんね。
内気で儚げな、含羞に満ちた沙耶の視線に、改めて、この同級生を救えなかったことがこれまでの自分の唯一の失敗だ、と拓也は思った。
非常梯子に両手をかけると、確かな手応えがあった。
片足を乗せても、足元に揺るぎはない。
拓也は雑念を払って、慎重に踏み出した。
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