過去の私に会いに来てね
あの日が最後になるなんて思いもしなかった。また学校で会えると思っていた。
しばらく先輩の姿を見かけないなと思い、何人かに所在を尋ねると「鷹見くんも聞いてなかったんだ。葉月さん大学辞めたみたいだよ。詳しいことは誰も知らないみたいだけど、何か別の道を進みたくなったらしいよ」と思いもよらない回答が返ってきた。
今になって振り返ると、確かに違和感はあった。誕生日でも何でもない日にいきなり使いかけの香水を渡して、「忘れないでね」って普通なら言わないはずだ。
「どうしたんですか?まるで今日が最後みたいじゃないですかー」と軽く茶化しながら探りを入れることは出来たはずだ。
先輩に連絡をしようとアプリをタップしたが、斉藤さんはトークルームを退室しました。と表示されている。SNSのフォロワーも確認するが、アカウントも消されていた。
僕の手元には先輩から貰った使いかけの香水だけが残っていた。
シュッ、シュッと数プッシュ手首にかける。先輩が握った右の手首にわずかな熱が残っているような気がした。
先輩の香りが漂う。それと同時に、別れ際に先輩が発した言葉が蘇る。
「この香水の種類はオーデコロンって言ってね、香りが持続する時間は1〜2時間と短いんだ」と僕に講義をしてくれた。
美容について疎い僕は頷きながら聞いていた。
「これが香る間は過去に戻れるから、会いに来てね」と意味深なことを呟いた。
「それ何かの小説か歌詞ですか?」とツッコミを入れる。急に過去に戻れるなんて現実離れしたことを言い出して頭がおかしくなったんじゃないかと思ったが、言葉にはしなかった。
「今頭おかしいって思ったでしょ」
言葉にはしなかったが、顔には出てたみたいだ。
「いや、そんなことないですよ」と形だけ否定しておいた。
何かその後も会話をしたとは思うが、そこまでは思い出せなかった。
あれから数年が経つ。ほぼ毎日愛用しているため香水はもうほとんど残っておらず、何度か押してもカチカチと音をたてるだけだった。匂いを嗅ぐ度に先輩のことを思い出したが、過去には戻れていない。
諦めずに押し続けると、シュッとワンプッシュだけ香水が出てきた。
シアーグリーンの香りが漂う。目を閉じて大きく息を吸い、体内に爽やかな香りを少しでも多く取り込もうとする。
微かに先輩の声が耳元から聞こえてくるようか気がする。
頭がボーッとしてきた。次第に今が現在なのか回想なのか、夢なのか、妄想なのかわからなくなっていった。
「ねぇ、鷹見くん!」と誰かが僕の名前を呼んでいる。
「んー」と伸びをして目を開けると、向かい側に先輩がいた。机にはコーヒーが2人分ある。
「そんなに酔ってるの?大丈夫?」と先輩が顔を覗かせてくる。
あまりの近さに「へっ!」と思わず変な声を上げてしまった。
「何その声!」と先輩は僕の肩を叩きながら笑った。
肩から先輩の温もりが伝わってくる。
「夢じゃない…」と僕は思わず呟いた。頭は混乱していたが、目の前に先輩がいることは事実だ。
「葉月、会いたかったよ」と僕は素直に思ったことを言った。本当にずっと会いたかった。
先輩は急に名前を呼ばれたことにびっくりしたのか、大きく目を開いた後口角が僅かに上がった。
「本当に過去に戻ってきたの?」と先輩が聞いてくる。
「多分」とだけ答えた。僕自身この状況をあまり理解出来ておらず、多分としか答えられなかった。本当に過去に戻ってきたかどうかはわからない。ただ、目の前に先輩がいる。それだけで充分だった。
急に先輩が僕の頬をつねって、「痛い?」と聞いてきた。
「すいぶん、こふぇんてぇきなやりぃかたぁでふね」
「え、何ていったの?」と先輩が笑いながら聞いてくる。
僕は先輩の手を頬からどかして、「頬をつねって確認するって古典的なやり方だって言ったんですよ」と再度伝えた。
相変わらず先輩のあざとさは健在で、心臓がバクバクと脈を打っている。頬にもまだ先輩がつねってきた感触が残っている。
「夢かどうか確かめるのは頬をつねるって決まってるじゃん!おばさん扱いしたな」と言って頬を膨らませる。
「すみません。おばさんなんて思ったことないですよ」とすかさずフォローを入れる。
親しき仲にも礼儀ありだ。ちょっとしたことで誤解を招いてしまったことは多々あった。その度に自分の気遣いのなさを痛感した。
「本当に未来からきたんだね。なんか大人っぽくなってるよ」
「ですかね?まあ社会の荒波に日々揉まれてますからね」
ポケットで何かが震えた。取り出すと以前使っていたスマホだった。本当に過去に戻ったんだなと改めて実感する。
「そういえばこれ使ってたな。懐かしい」と言いながらスマホを手に取る。
友人から『お前帰ったの?2次会来いよー』とメッセージが着ていたが、無視した。
スマホの上部に表示されている時計に目がいく。22:45と表示されている。
「俺ここに来てどんくらい時間が経ったんですかね」と口にする。
「これが香る間は過去に戻れるから、会いに来てね」と言った先輩のセリフも同時に蘇る。
手首を確認すると、まだシアーグリーンの香りがする。
先輩も時間がないことを悟ったのか、「ちょっと店出ようか」と言ってコーヒーを手に取り、立ち上がった。僕も後に続く。
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