第6話 大海原へ

 船荷を大急ぎで放り出し、食料と水を大急ぎで積み込んだ。

 ナクソス島にはレムリアの駐屯地は無いはずなので、後続のレムリア兵たちが追いついて来るのを苛々して待った。金貨の入った大箱の納まった部屋の周囲を船員たちがギラギラした目で歩いているのを見ると、レムリア兵無しでの出航は自殺行為に思えた。

 この期間を使ってナクソス島について調べる。

 ナクソス島は群島の中でも一番大きな島であり、豊かな農業と豊富な水の御蔭で貿易船の寄港地となっている。神殿があり、学問所もある。黒ローブの次の講演には絶好の場所だ。何より聴衆が多い。貿易都市の特徴で、文字の読み書きができる人間が多いのだ。

 一番重要なのは、ここを経由されてしまうと黒ローブの追跡は不可能とは言わないが困難になることが予想されることだ。

 ようやく追いついたレムリア兵を乗船させるとすぐに帆を上げて出航する。

 穏やかな波、都合の良い季節風。船は飛ぶように進んだ。


 やがて幾日かの行程の後にナクソス島が見えた。

 完全に接岸するのを待たずに船から飛び降りる。後ろにレムリア兵を引き連れて港のど真ん中を走った。

 何事が起きたのかと騒ぎになるなか、レムリアの旗を翻しながら俺たちは進んだ。

 町の広場が見えた。そしてそこに予想通りに黒ローブがいた。

 今度は大きなボードにロウ石で月の絵が描かれていた。その前に置かれているのは二つの球の模型だ。一つは大きく、一つはやや小さい。太陽に照らされた大きい方の球の影が小さい方の球に落ちる形になっている。

 黒ローブが大きな声で叫んでいる。

「このように月食という現象は、地球の影が月に落ちているのが観測されることで生じます。すなわち、地球は丸い球なのであります」

 アモデス賢者に聞くまでもなくこれなら俺も知っている。

 月食は、天空を廻る闇の太陽アーモンデのせいだ。この目には見えない闇の太陽は常に太陽の対極として天空に存在し、力のバランスを保っている。その極性は太陽と月に関係づけられているために、星の光は遮らないが月の光は遮ってしまう。月の輝きは太陽の輝きが反映したものだからだ。

 レムリアでは子供でも知っているこの科学を、ギリシアの人間は知らないように思えた。

「そいつを捕まえろ!」俺は叫んだ。

 レムリア兵と密偵たちが突進すると、大混乱のステージの中へとなだれ込んだ。

 黒ローブへと伸ばした手が宙を掴み、その頭の上をまたもや黒ローブが跳んだ。

 ローブが翻り、伸びた角と山羊の足、それと逆棘のついた尻尾が顕わになる。だがどれも一瞬のことで、奴は恐るべき素早さで器用にも群衆の中を駆け抜けると、港の方へ逃げ出した。

「追え! 追え! 追え!」

 俺は叫び、自らそれを実践した。目の前で右往左往する群衆を突き飛ばし、邪魔をしかけてきた街の警備兵を殴り倒した。

 荒い息をつきながら港へと走り込むと、ちょうど奴は離岸しつつある船の上にいた。

「帰せ! 戻せ!」

 叫んでは見たが無駄なことは分かっていた。

 こちらも船に乗り込み、出航を急がせる。配下が半分戻って来た所で無理を言って船を出させた。なに、取り残された兵は後で迎えにくれば済むことだ。

 後少しで奴に手が届く。

 水平線ぎりぎりの所に奴の乗った船のマストが見える。船の残りの部分は視線の届かぬ波の下だ。

 風よ吹け。波よ起これ。我が船を矢と変えよ。レムリアの神々よ。我が願いを聞き届けたまえ。

 俺の祈りが通じたのか二つの船の距離は徐々に縮まり始めた。

「接近戦用意!」

 部下たちに命じた。俺の声に応じて、レムリア兵たちが装飾付の剣を煌めかせる。黄金で縁取りされた鎧がずらりと並ぶ様が実に頼もしい。

「船長。こちらの船をあちらに接舷させろ!」

 船がきしみを上げて突進する。

 向こうの船が帆を下ろすと、船長らしき老齢の男が出て来てこちらに向けて怒鳴った。

「いったい何の用だ!」

「レムリア巡視隊だ!」俺は怒鳴った。「黒ローブの男を出せ!」

 船が接舷した。ロープが投げられ、板が渡される。

「何のことだ?」と相手の船長。

「黒ローブの男が乗っただろう。どこだ?」

「前の船室だが、あんたがたは一体?」

 この手の船は前は客室、後ろは貨物倉庫だ。

 答えずに全員で突撃した。廊下に突入し、船室の扉を片っ端からけ破る。

 商人風の男。びっくりしたような顔で見つめる貴族。抱き合っている男女。どれも違う。

 一つの扉の向こうの客室の窓板が破られていて、そこを黒ローブの男が這い出すのが見えた。こちらが跳びつく前にするりと船外に這い出す。

「外だ!」

 また全員が甲板にまろび出す。

「いたぞ!」誰かがマストを指さした。

 帆を下したマストを伝って黒ローブがするすると上に登る。

「もう逃げられないぞ。お前が誰だかは知らないが、大人しく投降しろ」

 俺は宣言した。レムリア兵が二人、剣を抜いてマストの根本に迫る。

「もう逃げたりはしないさ。おい、お前、ずいぶんとしつこかったが鬼ごっこもこれで終わりだ」

 黒ローブはそう言うと、自らローブを脱ぎ捨てた。

 真っ黒な体。醜い顔。長く伸びた角に、山羊の肢。逆棘のついた尻尾に、歪んだコウモリの羽が肩から生えている。

 異形の存在。異界の怪物。

 いくらローブで全身を隠しているとは言っても、今までだれもこれに気づかなかったとは信じられない。

「聞こえないか。もうすぐそこまで来ている」

 そいつ、いや、それは言った。

「何がだ? いやそれよりお前は何だ?」

「俺かい? 俺は悪魔だ。これから兄弟と一緒にこの世界を支配するものだ」

「支配だと?」

「支配だよ。平面の世界はユートピアだ。どこまでも続く大地はいつでもそこに希望が待っていることを示している。だがそれはもうじき丸くなる。世界は地平線の彼方で繋がり、有限と化す」

 うん、わけが分からない。謎かけがしたいなら賢者連中とやってくれ。

「それが支配とどう関係がある?」俺は尋ねた。

 マストの周囲ではレムリア兵たちがじりじりと包囲を狭めている。

「球の世界ではあらゆるものが最後には尽きる。それは希望もまた同じ。希望無き世界こそ俺と俺の兄弟、つまり悪魔と神が支配する世界。人類は弱り、やがて主人の座から転落して俺たちの奴隷と化すであろう」

 十分だ。俺は指を鳴らした。

「そこでいつまでも歌っていろ。こちらはこちらで任務を果たさせてもらう」

 レムリア兵が火炎杖の狙いをつけた。


 そのときだ。船が大きく揺れた。

 バランスを崩して倒れた俺の上をレムリア兵が転がっていき舷側から放り出された。悲鳴が長く続き、ふつりと途絶える。

 青空を白い光が引き裂いた。何か大きな力が天空を歪めている。

「ははははははは。ついに始まったぞ」悪魔が吠えた。

 船よりも高い大波が沸き上がり、俺たちの上に落ちかかって来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る