第7話 森 珊瑚

 モノレールの下はムードがあるものの、この季節は虫が多くて嫌になる。

 一学期も残すところ数日となった七月中旬。

 みんなで下校している中、バンドのことで相談があるといって一だけを連れ出した。

 自分で場所を決め、こんな時期に一の時間を貰っておきながら早く済ませて帰りたくなってしまう。

「何だよ、話って」

 ベンチに座りながらギターを大事そうに抱えている。部活がない日でもアンプに繋いで思い切りギターを弾きたいときは学校に持ってくるらしい。気持ちは非常に分かる。

「文化祭のことで相談があってさ」

「何、曲変えるとか? まあ一か月ぐらいあるから別にいいけど」

 さすがに付き合いも長いので私が曲を変えたいと思っているのは薄々気づいていたらしい。その通りなのだが、今回の相談は曲を変える理由についてだ。

「この曲やりたいんだけど」

「へー、グループ名なんて読むんだ、これ」

 私のスマホを手に取り、耳に当てて曲を聞く。

「緑先生に教えてもらったバンドなんだけど、格好良くってさ。文化祭でやったら盛り上がりそうだなって思って」

 世代が違うので知っている生徒は多くないかもしれないが、人の為ではなく自分の為にステージに立ちたい。

 今回はその気持ちが強い。というより、そうしないと意味がない。

 曲の一番を聞いた辺りで一がスマホを返してくれた。

「格好いいじゃん。ギターもベースもドラムもそんなに難しそうじゃないから、綾も悠も反対しないんじゃないか?」

 ずっと四人でバンドを組んできたのだから、その二人がきっと反対しないだろうとは思っている。一番文句を言いそうな一から説得したのは、一が賛成なら問題はなさそうだからだ。

 あと、もう一つの理由についても話しておかなければならない。その為にわざわざ呼んだのだから。

「実はさ、曲について話したかったのは本当なんだけど、本題が別にあって………」

 覚悟を決めて呼び出したはずなのに、やめておこうかと考えてしまう。今からでも他愛ない話をそれっぽく話して無かったことにして帰ってしまうか。

 そんな情けないことを考えていたが、どうも顔に出ていたようで一はいつになく真剣な顔で茶化さず私の言葉を待ってくれていた。

 卒業まで内緒にしておく、という選択肢もあったのかもしれないが、もう自分の中の想いが溢れてしまいそうになるので、言葉にして吐き出してしまいたい。

 深呼吸をし、一の目を見て話す。

「告白するって言ったらどうする?」

「まず、珊瑚に好きな人がいたことに驚いた。いや、いるんだろうなとは思っていたけど誰にも話してなさそうだったから。何で急に?」

「このシチュエーションで自分だったらとは思わないの?」

「残念ながらその期待はしてなかったな。珊瑚は仲の良いコミュニティの中で恋愛しなそうに見える」

 半分正解かな。友人は友人、恋人は恋人と分けたいと思っている。

 そうできたらどんなに楽だったか。

「いつ告白すんの? あ、もしかしてそれでこの曲がやりたいのか」

 がっつり恋の歌なので誰でも気が付く。わかっていたもののいざ指摘されるとやっぱり恥ずかしい。

 段々回りくどい話をすることに疲れてきた。もう言っちゃうか。楽になれるだろうし。

「一に相談したいのはさ、そもそも告白すべきなのかなってことなんだけど」

「した方がいいんじゃないか? いつかはするんだろうし」

「しないって選択肢もあるんだよ」

「まあ、そうかもしれないけど…………。え、何。もしかして既に誰かと付き合ってる人?」

「そうだね」

 マジかー、とギターに頭をもたれかける。親身になって考えてくれているようでありがたい。

 少しの沈黙が流れたが、一なりに答えは出たようだ。

「告白していいと思う。その相手がそのままずっと付き合って結婚する可能性なんてそう高くないだろ。相手知らないけど。いつか別れるかもしれないんだったら、このタイミングで珊瑚自身の気持ちの為にも横恋慕したっていいんじゃないか」

「諦めるなってこと?」

 目を伏せ、即答はしない。そんなところだな、とはぐらかす。

 諦めるなって言うのは簡単だけど、結局は他人事だしね。一はそういう無責任なことは言いたがらない人だ。

 人に話して少し楽になった。

 元々自分の中で答えは出ていたと思う。

「やっぱり告白は止めておくわ。だけど、想いは伝えようと思う。ありがとね、話聞いてくれて」

 立ち上がり、わざとらしく身体を伸ばす。

「俺のアドバイス関係ないじゃん。まあ、珊瑚がしたいようにすればいいと思うぞ」

「相手がどんな人か聞かないんだね?」

「俺の知っている人なのか?」

「愛里だよ」

 何度も呼んだ名前のはずなのに、初めて好きな人の名前を口にした。

 いざ口に出すと確かに心が軽くなった気がする。

 恥ずかしさが半分、一がどんなリアクションをするかが楽しみなのが半分。いや、初めて自分の恋バナをすることの楽しさもあるな。

 とりあえず座ってください、とまだ混乱しながらも言葉を選びながら一が着席を促す。

 私がこういう冗談を言うタイプでないのは長い付き合いで分かっているのだろう。

 だからこそ、大仰なリアクションもせず、まるで次に発する言葉で私の人生が大きく変わってしまうという責任感を背負わされたような顔をしている。

 さすがにちょっと可哀想なことをしたな。

「別に何言ってくれても構わないよ。自問自答はさんざんしてきたし。思っていることを口にしたって、一からは私が立ち直れなくなるような酷い言葉は出てこないよ」

 とはいえ、同性愛者であることをカミングアウトされ、しかもそれが一番仲の良いグループ内で、小学校からの幼馴染で。

 一からすれば情報が絡まり過ぎていて、縺れた糸をどこから解くべきなのか考えあぐねてしまうのは当然だ。

「…………ごめんな、そういうカミングアウトされるのが初めてで、何て言ったらいいかわからない」

「むしろこっちがごめん。人に話せただけで随分楽になったよ。めっちゃ感謝してる」

「俺にしか話してないのか?」

「うん。ネット上にも日記にも書いたことない。全くの初出しです」

 重いっての、と少しぎこちなく笑う。雰囲気を良くしようとしてくれる配慮に嬉しくなる。

「そうなると告白すれば、なんて気軽に言えないなあ。さっきの曲なんて名前だっけ?」

 自分のスマホで検索をし、歌詞をもう一度ちゃんと読み始める。

 愛里が好きだと言った上で見られると、心を丸裸にされているようで恥ずかしい。

 一通り読んだ後、溜息をついて一言切ないねえ、と誰に言っているか分からない言葉を吐き、空を見上げる。

「これって成功するように、って応援でいいのかな?」

「さっきも言ったけど告白はしないよ。あくまでこの歌を歌って想いを伝えるってだけ。だから成功も失敗もないよ。強いて言うなら今後私が怖気づいても絶対にやめさせないでほしい。その時は止めて」

 わかった、とそれだけ言って立ち上がる。

「もうすぐ夏休みかー。珊瑚と愛里を見ちゃうと色々考えるから、しばらく会わないのは良いのかな」

「そうは言っても夏休みに何度か会うでしょ。難しいと思うけど普通にしてくれたら嬉しい」

「腹減ってない? ラーメンでも食いに行く?」

「雰囲気的にアリなんだけど、文化祭終わったらご馳走になろうかな」

 じゃあ、また誘うわ、と言って二人で立川駅に向かう。

 実は男子たちがラーメンを食べに行っているのを見て羨ましいと思っていた。

 当然、ラーメン屋に行ったことはあるけど、ただの食事というよりは友情を確かめ合う儀式というか。青春の一ページとして深く刻まれるような気がするから。


 私が希望した曲は後夜祭で全校生徒の前で演奏することになった。

 同性愛を仄めかすような曲じゃないし、まず分からないから安心しろと一は勇気づけてくれた。

 どうせ伝わらないなら大勢の前で歌いきった方が気持ち良い、という私の思い込みは隠しつつ、綾も悠も後夜祭に向けて練習をしてくれた。

 二人には本当の理由は話せていない。信用していないという訳では決してないのだが、やはり口にするのは勇気がいるし、覚悟はしていても反射的に取られるリアクションで傷つかないという保証もない。

 夏休みの貴重な時間をもらってしまうので全体での練習は本番直前に、ということで私は一人で軽音部の部室で練習し、適当にやったところでクラスの手伝いに参加するようにしていた。

「珊瑚ちゃん、お疲れ様」

 二階廊下の空きスペースで千夜子がベニヤ板の看板にペンキを塗っていた。

 夏の暑さが相まってペンキの匂いがきつく感じる。

「千夜子もお疲れ。暑いね。何か私も手伝うことある?」

「塗っているだけだからなあ。もうすぐ終わるし。教室にライラちゃんがいるからそっちを手伝ってあげて。私も終わったら行くから」

 汗で張り付いた前髪が作業環境の悪さを表していた。確かにここは風通りが悪い。

 手持ちの扇風機を貸してあげると、いつになく大胆に服の中に風を送り込んだ。

 男子がいる訳でもないし、これだけ暑かったら千夜子だってそれぐらいするか、と微笑ましく見ていると、廊下を歩いていた緑先生に声をかけられた。

「麗、だいぶ刺激的な感じになっているから男子生徒の前ではやめてやれよ」

 もうちょっとだけ、と風を味わう千夜子からは妙な色気を感じた。

「先生、この前教えてもらったバンド、凄い良かったです。今年は後夜祭であの曲をやることにしました」

 報告すると緑先生はめちゃくちゃ喜んでくれた。あのバンドそんなに好きだったんだ。

「いやあ、最近はああいうのが流行っていないのはわかっているんだけど、格好良かったでしょ? 私の時代の高校生はみんなあれを聞いていたんだよ。学生バンドの定番って感じで」

「緑先生もバンドやっていたんですか?」

「いや、私は楽器とか出来ないから。カラオケで歌ったりはするけど」

「そんな良い曲なんですね。私は二人ほど音楽に詳しくないけど、聞いてみたいな。何て曲?」

 千夜子にバンド名と曲名を教えてあげている間も緑先生は楽しそうに他のオススメを教えてくれる。好みが近い気がするからゆっくり話したい。

「へえ、知らないや。二〇〇〇年の曲なんだ! 生まれる前の曲だ!」

「わかっているけど傷つくな…………。そうか、あなたたちって二〇〇〇年にはまだ生まれてないんだ…………。まあ、私が小学生だったし当然か」

 緑先生の年齢は知らないが、大人は大体そういったリアクションをする。私もいつかその気持ちがわかるんだろうか。

 その後も緑先生はバンド談義をしたそうだったけど、仕事の合間だったことと、千夜子が置いていけぼりになってしまうことから、また今度といって上機嫌で物理準備室の方へ歩いて行った。

 途中になった作業をやり切ってしまうという千夜子と別れ、教室に入るとライラが数人でチラシのデザインを考えていた。

「あ、サンゴー。練習終わった? お昼どうするの?」

 近くに座るとこちらも順調に進んでいるようで、わざわざ私が手を貸す必要は無さそうだった。

 一緒にどこか行こうか、と話していると他のクラスメイトはこれから部活に戻るということなので作業を終えた千夜子と合流し、三人で立川駅へと歩く。

 ミンミン蝉の鳴き声が住宅地に響く。スカッとした青空と白い雲は多少元気をくれるものの、些か暴力的に暑い。学校を出たばかりだが、急いで冷房の効いた室内に逃げ込みたい。

 三人とも特に用事もないようなので、のんびり何を食べるか話しながら歩く。

 人通りも少なく、まるで本当は出歩いちゃいけないのかと錯覚してしまう。

 ライラは少しでも日陰を歩きたいのか、チョロチョロと動き回り、千夜子はうちわで首筋をパタパタと仰ぐ。自分だけ扇風機を使っているのが申し訳ない気もするが、そうも言っていられない。

「千夜子って肌白いよね。全然焼けてない」

 何の気なしに聞いてみると、煮え切らない返事が返ってきた。

 肌が白いことに何かコンプレックスでもあるのだろうか。すぐ赤くなってしまう私からすると羨ましい。

「珊瑚ちゃんってたくさんピアス付けているけど、周りから何も言われなかった?」

 不自然な話題の変え方に驚いたけど、そこまで触れてほしくなかったのかな。一年から一緒にいるけど知らない部分がたくさんあるな。

「近しい人の方が何も言ってこないね。関係ない人というか距離の遠い人ほど色々言ってくるかな。うちがこういう趣味なのは家族が一番知っているしね。そもそも髪染めるため、ピアス開けるために高校選んだ部分もあるし。仲良い人は面白がっても否定はしてこないかな。千夜子も会ってすぐの頃に格好いいねって言ってくれたじゃん」

「そうだっけ? いや、格好いいとは今でも思っているけどね。おしゃれでもあるけど、自分を貫いているスタイルが格好いいと思うよ」

 私もサンゴみたいにピアスつけたい、とライラが少し離れた日陰から話に入ってくる。

 何だか嬉しくなってしまい、ピアスに触れてしまう。

 奇抜というかわかりやすい派手な格好をしているのは、自分に自信がないからだと思っている。

 地味で特徴のない自分を変えたくて、ドラマや漫画に出てくるステレオタイプのバンドマンがそんな自分の対極にいるヒーローみたいに見えて形から入った。

 十歳になる頃には、もうこういう格好に憧れているのを覚えている。女子児童向けのロックっぽい服を親に頼んで買ってもらった記憶がある。

 十五歳の誕生日に愛里に誕生日プレゼントとしてピアスを貰った。高校生になったら付けられると思って一日でも早く高校生になりたいと思っていた。

 あの頃には愛里のことが好きだったのかなあ。

 お小遣いを溜めて色んなピアスを買ったけど、このピアスだけはずっと外せていない。


 後夜祭があと一時間で始まる。

 ステージ裏では一たちや他の出演グループが楽器の準備をしている。

 バンド以外でもダンス部や有志の人達も出演する。なので、私たちは別にメインというわけではない。観客も後夜祭だから来るのであって、わざわざ私達を見に来るわけではない。

 自分達を目的に来てくれているのであれば、好きな曲を好きなように演奏しても良いはずだ。だが、自分達を目的にしているわけでなく、あくまでステージそのものを目的としている観客がほとんどなのであれば、観客に合わせた曲をやるべきなのではないだろうか。

 変更なんて出来ないが、そんなことを今更ながら考えてしまう。

「珊瑚さん! 頑張ってください!」

 集合時間まではまだ余裕があり、緊張を紛らわすために校内をうろついていると妃乃ちゃんに声をかけられた。

 頑張るね、と手を振って応える。昨日は一のお母さんも来ていたらしいが、今日は友達と一緒に行動していた。文化祭のパンフレットやどこかで貰ったのであろう謎のぬいぐるみなどを抱えている辺り満喫しているようだ。

 その足で教室に向かう。

 後夜祭に出演をするのはみんな知っているので、声をかけてくれる。

「バッチリ最前列で見てるからな! 頑張れよ!」

 進藤がハイタッチをしてくれる。それに乗る様にライラ、千夜子、伽藍ともハイタッチをして志気を高める。

「愛里ちゃんはどっか行っちゃった。まだ時間あるからあとで合流しておくよ」

 私の視線で気が付いたのか、千夜子が教えてくれる。

 つい探してしまう。これから愛里に向けて歌うのに、愛里に気付かないで欲しいという気持ちもある。

 ただ、私がスッキリしたいだけなのかもしれない。

 全校生徒の前で好きな人に想いを伝える為に歌うなんていう青春を味わいたいだけなのかもしれない。

 たぶん、みんなは優しいからそれでいいと言ってくれるだろう。

 でも、私は臆病だから、人に嫌われたくないから、周りの目を気にしてしまう。

 髪の色もピアスも無ければ私なんて無個性なただの高校生だ。

 唯一自信がある歌に頼らなければ、好きな人を堂々と好きだと思うことすらできない。

 何回時計を見ても大して針は進まない。

 遅れないようにしなければという緊張と、まだ大丈夫かなという確認で疲れてしまうので少し早いがステージに向かう。

 三階の体育館を目指し、呼吸を整えながら廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。

「珊瑚…………。良かった…………。入れ違いになっちゃっていたみたい」

 愛里が息を切らせている。

 どうやら私が教室に向かったのと同じように愛里はステージ裏に激励に来てくれていたみたいだ。教室に戻ったら私が出て行ったのを聞いて追いかけてくれたのだろう。

「まだ少し時間あるから大丈夫だよ。わざわざありがとう」

「頑張って! めっちゃ盛り上げるから!」

 そういう曲じゃないよ、と笑う。

 何か、言いたくなる。でも、思わせぶりなこともしたくない。

 ただ聞いて、ただ思ってほしい。

 どんな感情でもいいから、少しでも心を動かしてほしい。

「じゃあ、行くね。応援よろしく」

 愛里に向けて右手を挙げる。パンッと小気味良い音で私の手を叩く。

「楽しんできてね!」

 楽しんで、かあ。楽しいのかなあ。

 初めて湧く感情に目まぐるしく心を掻き回され、自分が何に緊張しているのかもわからなくなる。

 ステージ裏には文化祭実行委員を含んだ生徒が肩を寄せ合って自分の出番を待ち望んでいた。

 一達に合流し、今日何度目かのハイタッチをする。

 これがこの四人でやる最後の演奏になるかもしれない。

 これで愛里への想いを昇華できるかもしれない。

 私にとって忘れられない、忘れたくない特別な六分間になるんだろうな。


 ライトに照らされたステージに対して観客席は暗くてよく見えない。

 三学年分の全校生徒がうごめいており、前のバンドの感想を言ったり、私たちに向けて声援を送ってくれている。

 曲名を言ったところで盛り上がりはしなかった。私たちの世代の曲じゃないから当たり前だ。

 ただ、ところどころで知っている人もいたのか、悲鳴のような声をあげた女子がいた。何だか嬉しくなる。

 本当はボーカルが歌いながらギターを弾く曲なのだが、ギターは一に任せて私は裸一貫でマイクの前に立つ。

 イントロがないので、一との目配せで歌い始める。

 歌い始めてしまうと緊張はスッと抜け、歌詞を間違えない様に、少しでも想いを乗せられるように、愛里のことを考えて歌う。

 口に出すこともなく、伝わることもなく、叶うこともなく、終わることのない恋だと思っていた。

 未来のことは分からないけど、今までの私には愛里以上の人はいなかった。

 いつも側にいてくれてありがとう。

 愛里に彼氏が出来た時、喜べなかった。それまでは、どこか私のことを大事にしてくれているという確信があったから。彼氏が出来ても愛里は私のことを大事にはしてくれるが、私の恋心には気が付かないんだろうな、と改めて思ってしまった。

 でも、彼氏が出来たことを喜んで、はにかむ愛里はとても綺麗だった。

 愛里のことは何でもわかっているつもりだったけど、何を思って何を考え、誰を愛し誰の為に傷つくのかなんて、わからないんだ。私は神様じゃないから。

 ドラムの音が減っていく。ベースの音が身体に吸収されていく。ギターの音が耳に残っている間に、約八〇〇人の歓声と拍手が聞こえた。

 ああ、そういえば全校生徒の前で歌っていたんだな、と生涯で一番の観客数になるであろうステージを噛み締めていなかったことに後悔する。

 次の出演者と入れ替わり急いでステージ袖にはける。

 あそこミスっただの、少し速かっただの反省をしつつも、集大成となるような演奏ができたことにみんな満足していた。

 一と目が合った。たまに見せる優しい眼差しはどうせ私のことを妹のように扱っているのだろう。

 少しだけ腹が立つが、それ以上に頼りになるなと感じてしまった。絶対に口には出さないけれど。

 暗い体育館の脇をそそくさと抜けていく。観客の注意は次の出演者に向けられており、私たちの演奏をもう忘れてしまった生徒もいそうだ。

 当事者の私も大人になったら忘れてしまうんだろうな。

 高校最後の後夜祭でステージに立ったこと、みんなでバンドを組んだこと、愛里が好きだったこと。それは出来事としては忘れないだろうけど、この場の熱気や細かい会話や、達成感はきっと忘れてしまう。二年生の時の文化祭だって楽しかったけど、鮮明に思い出せるかと言われると時間がかかるし、自信もない。

 だから思い出せるようにたくさんのことをしよう。この文化祭が終わると本格的に大学受験に備える人が多くなるので、今までのようには遊べない。

 でも、大学生になっても出来るだけ集まろう。

 そうすれば忘れてしまっても、思い出せることも増えるから。

 暗がりの中、手を振る人影がぼんやりと見えた。

 思い出をたくさん共有する友達と好きな人がこちらに駆け寄ってくる。

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