清流の畔、薫風の扉。

野村絽麻子

第1話

 裸足の足先で水面をそっと撫でてみる。透き通った川の水は、パステルグリーンに塗られた爪先を包み込んだかと思えば、そのままわだかまることなく流れ去った。ひやりと冷たい温度。幼い頃、この縁石に腰掛けて小川に足を浸した場面が蘇る。

 懐かしい感触を少しのあいだ愉しんで片足だけ感覚が変なまま振り返ると、白澤くんは、私とは無関係ですよみたいな顔で観光客然としているので、これはと思って心持ち大きめに声を出した。


「ねぇ、白澤くんもしてみたら?」

「……やだよ」

「えー、なんで?」


 小声で答えた横顔はついにこちらに向き直る。片方のサンダルを右手に持ったまま、片足はぶらりと宙に浮いたままの私の姿を見て取り、脱力したような顔になった。あんな表情、するんだなぁ。


「濡れるだろ、それ」


 そりゃまあね。水ですから。言葉にしないまま、外国の映画みたいに肩をすくめて見せてから、手持ちのハンドタオルで軽く足を拭った。タオルってこんなに暖かいものだったのか。いや、水が冷たかったのか。


「あのね、あっちに行くと街道に出るから、お蕎麦屋さん探さない?」

「……そこも、なんかあるわけ?」


 思いのほか水が冷たかったのと(さすが湧水だ。)少し退屈そうに見えた白澤くんのために提案したのに、返事はそっけなかった。

 それで、うん、と子供じみた短い返事をする。

 もしかしたら、さっき野菜の直売所を冷やかした時に「可愛らしいアベックだこと」と茶化されたのを気にしてるのかも知れない。手ぬぐいを被ったおばあちゃんはチャーミングだったけれど、さすがに、ワイルドに束ねられた小松菜を買う気にはなれなかったし、私たちは「アベック」などではない。


 湧水の小川は音もなく流れていて、まるで水が動いていないみたいに見える。さっき足を浸したからちゃんと流れている事はわかってるはずなのに、私は再びしゃがみ込んで今度は指先を浸す。ちいさく水面が波立って指に波紋が纏わりついた。

 今いる歩道とは反対側に名前のわからない植物が垣根のように繁っていて、その後ろに生えた笹か竹がまるで滴るようにしんと鎮まりかえっている。

 そうか、さっきからたまに水面に浮いてるのは、この葉っぱなのか。

 発見を伝えようと後ろを振り返ったら白澤くんの姿がなかった。辺りを見渡せば、ちょうど観光客向けに置かれた竹のベンチに腰掛けたまま、腕を組んで目をつぶっているのが見える。濃紺の半袖シャツの襟元に覗くTシャツの白地に木漏れ日が踊る。

 つまらないのだろうか。

 ならば、どうして。




 真姿の池湧水群を、見てみたいと言い出したのは白澤くんの方からだった。

 私はただ、授業に聞き馴染みのある単語が出てきて嬉しかったのを、その日たまたま日直で一緒だった白澤くんに、世間話くらいの感覚で話したのだ。真姿の池湧水群は私が小さい頃に住んでいた地域にある、と。

 だから懐かしくなったと話を締め括ろうとしたのに、予想外にも口を開いたのは白澤くんだった。


「じゃあ、そこに桃井さんのルーツがあるわけか」

「まぁ、そうと言えなくもない、かな」


 それから、放課後の校舎に響く下手くそなトランペットか何かの練習の音が途切れるまでたっぷりと沈黙した後で、白澤くんは小さな、でもよく通る声で言った。


「行ってみたいな、そこ」


 それで、いま私たちはここに居る。




 白澤くんと出かけることを親友の茉里奈にだけは話してあった。と言うよりも、誰かに話さないと消化するのが難しかったからだ。

 帰り道にある大型モールのフードコートで、茉里奈はとても真剣な顔でフルーリーをすすった。中身が固かったのかも知れない、とスプライトを飲み下しながら思う。


「そんなに積極的なタイプには見えないよね」


 茉里奈の言う通り、白澤くんはどちらかと言えばおとなしいタイプで、二年に上がったクラス替えで一緒になったけれど、それまでこんな生徒がいるなんて知らなかったくらいだ。もちろん、私のことも知らなかったと思う。私だって目立つ方の生徒じゃない。


「成績は良いよね」


 それは間違いない。先月の中間考査では成績はかなり上位で、クラスの派手な女子に囃されて「単に得意な箇所だっただけだから」とそつなく応えていた。その時なんとなくだけど、只者じゃなさそう、なんて思ったのだ。


「でも、変なこと考えてる人じゃないと思うよ」

「うーん、それもそうだよね」

「せっかくだし、楽しんできたら?」


 大丈夫、羽純ちゃんかわいいから。

 いたずらっぽく付け加える茉里奈のオデコを軽く突っついてからストローを咥える。まぁ確かにせっかくだもんな。

茉里奈の言葉は炭酸の泡に溶け込むように優しくて、私はすっかり気持ちを楽にしたのだった。




 お蕎麦屋さんは果たしてそこにあった。

 店構えが変わったような、変わってないような、いまひとつピンと来ないけれど、お店の名前は同じだった。記憶の中の場所ともきちんと合致する。


「湧水を使って蕎麦を打ってたりするのかな」

「どうかな」


 知らなかったので素直に応えれば、ふっ、と軽く噴き出した白澤くんが「知らんのかーい」と呟きながら暖簾をゆるく右手で払った。引戸をカラカラ言わせながらお店に入るのでその背中に続く。

 覚えているような、いないような。よくある配置でテーブルと椅子が並んでいる中で、窓の近くの席についた。

 おしぼりとお茶を持ってきた店員さんには、当たり前かも知れないけど見覚えがない。

 白澤くんとあらためて向かい合って座るのはなんだか照れてしまう。視線を逸らしたくて、手に取ったお品書きを広げて見せた。おしぼりで手を拭きながら白澤くんが言う。


「オススメはありますか?」

「えーと……天ざる?」

「疑問系かーい」


 また小さい声で白澤くんが呟いて、でもそれが何だか少し楽しそうに聞こえたので嬉しくなる。おかしい。おかしいぞ。これまでちっとも意識してなかったはずの白澤くんが、笑顔になると嬉しいなんて、それってどういう感情なのか。

 結局、白澤くんは天ざるを、私は鴨南蛮を頼んだ。店内はすこし埃っぽく、点けっぱなしのテレビからはショッピング番組が流れている。


「なんだか変な感じするな」


 そう言ったのは白澤くんなのに、妙に緊張したのは私の方だった。七味を少しかけ過ぎたし、お箸を転がしてしまい冷や汗をかく。

白澤くんはお蕎麦にわさびを付けて食べる。海老のしっぽもきれいに食べる。今日は初めて知ることが多い。

食後に出された蕎麦茶は温かくて、これも湧水で淹れてあるのかなとぼんやり思いながら飲み干した。




 帰りは国分寺の駅から電車に乗ることにして、史跡の辺りを歩く。


「昔、ここら辺に七重の塔があったらしいね」

「七重!」

「うん。しかも二つ」


 沈黙する白澤くんと並んで立つ。きっとその塔があるところを想像している。それで私も、いま見えている景色の中に塔を描く。

 背の低い草が一面に生えた空き地のように見える跡地。所々に看板が立っていて、かつて何があったかを解説してある。

 建物の土台だけが復元されているのと看板とを参照しながら、私たちは敷地を歩き回った。空想の中で建物を、街を、人々の暮らしを組み立てていきながら。

 中学の時の修学旅行で見た京都や奈良の寺院がずいぶんと優美で、なのに想像もつかないほど古くに建てられたものだったから、途方に暮れる気持ちになったのを思い出した。たぶんあれと同じようなものが、かつてここにあったのだ。

 金堂、講堂、鐘楼の跡。壁に囲まれた空間にはきっと大勢の人が行き交っていた。


「着物だよねぇ」

「ま、そうでしょうね」

「たぶん牛車とかあったよね」

「馬とか、乗ってたでしょ」

「綺麗な水が湧いてて」

「そりゃあ人も集まるし街もできるよね」


 まだ暑くなる前の、心地の良い風が吹いて半袖の腕を撫でていく。史跡巡りが思いのほか楽しくて、胸の中がザワザワと渦を巻いた。これは知的好奇心が満たされたせいなのか、それとも。

 右手で前髪を抑えながら白澤くんの方を窺うと、白澤くんもちょうどこちらを見ていた。カチリと視線が合う。


「……やっぱり、桃井さん素質あるよ」

「え……素質?」

「そう」


 何の、と声に出して問う前に白澤くんが言う。


「地学部、入らない?」


 ちがくぶ、という単語がひらがなのまま耳に入ってきて、頭の中でひとつひとつ漢字に変換されて、確定キーが押された。地学部。そういやあった、そんな部活。って。


「勧誘かーい!」


 今度は私が言う番だった。今日イチの笑顔で頷く白澤くんに、それ以上何が言えただろうか。

 天を仰ぐ。夕暮れてきた空は端から綺麗な藍色に染まりはじめている。やわらかく吹く風は草の匂いと、ほんの少し水辺の匂いがするような気がする。

 とりあえず返事を保留してだらだらと歩き出しながら「茉里奈、笑うかなぁ」と考える。地学部に入るって言ったら、笑うかなぁ。



 風薫る初夏。私は心を決めて扉をノックする。

 あの時感じた、胸の中を走り抜ける旋風のざわめきを、一緒に水や風の匂いを浴びたあの瞬間のことを、やっぱり忘れたくなくて。

 恐る恐る開いた古くて軽やかな扉の向こうで、きっと白澤くんが「待ってたよ」と穏やかに微笑みかける。それは古くて新しい世界を見つける、鮮やかな日々のはじまりに違いない。

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清流の畔、薫風の扉。 野村絽麻子 @an_and_coffee

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