心のありか

第26話 追憶①

 それは俺が小学校高学年の頃。たぶん、一目惚れだった。


「お前、いつもつまらなそうな顔してるな」

「は? いきなり侵入してきたくせに何それ? 失礼過ぎ」

「じゃあもっと楽しそうな顔しろよ」

「楽しくないからこんな顔してるんでしょ」


 つまらなそうに外を眺めていた彼女。なぜだか気になって、俺は彼女の家の庭に侵入していた。


 いつも通学路から彼女の姿は見えていた。儚く、風が吹けば飛んでいきそうなか細い体。


 彼女は俺を歓迎してくれていないようだった。当たり前か。


 いきなり侵入してきたら警戒するのも無理はない。


 それでも、なんだかほっとけないと思ってしまった俺がいた。


「じゃあ楽しくなるようにこれから毎日来るよ」

「は? 来なくていいわよ。迷惑だし、不法侵入だし」

「難しい言葉知ってるんだな。じゃ、また明日来るわ!」

「いやだから来なくていいって言ってるんだけど!?」


 いきなり仲良くはなれなかった。


 次の日も、また次の日も俺は彼女の元へ向かった。


「いつまで来るつもりなの? 私の邪魔をしないでくれる?」


 毎日、彼女はなんだかんだ相手をしてくれた。


 意外と律儀なところもあるらしい。口はものすごく悪いけど。


「邪魔って、お前は一人で何してんだよ?」

「お前じゃない。私は梓って名前があるの。適当に呼ばないで」

「梓って言うんだな! 俺は大雅!」

「別にあんたの名前は聞いてないしどうでもいい」

「梓は口悪いな。そんなんじゃ友達出来ないぞ?」

「友達なんていらない。それにできないわよ私なんかに」


 彼女は吐き捨てるように言った。


 ほんの冗談のつもりだったが、怒らせてしまったかもしれない。


「そんな寂しいこと言うなよ」

「ただの事実よ」


 話を聞けば、どうやら梓は病気で家から出られないらしい。


 か細い身体も、病気で満足に運動できないからなんだろう。


 どこか全てを諦めているように感じる黒い瞳。せっかく可愛らしい見た目をしているのに、常に不機嫌そうな表情をしているのはもったいなく感じる。俺の見立てが間違ってなければ、彼女は笑っている方が絶対に可愛い。


「じゃあ今日から俺が友達だな」

「は?」

「いいじゃねぇか。友達がいた方がきっと楽しいぞ? それに、梓が家から出られないなら俺が話に来るよ」

「……頼んでない」


 梓は顔を逸らしたが、心なしか顔が赤くなっていた。


「顔赤いぞ?」

「うっさい! 死ね!」


 窓を思いっきり締められてしまった。怒らせちゃったか。


「ひどい言われようだなぁ……」


 俺はただ、梓と仲良くなりたいだけなんだけどな。うまくいかないもんだ。


 常につまらなそうな顔をする梓。俺はそんな彼女の笑顔が見たかった。


 だからまずは友達から。そんで仲良くなれば、いつか笑顔を見せてくれるかもしれない。


 時間はあるんだ。焦らず一歩ずつ進もう。


 次の日、昨日の別れが強烈だった分、拒絶されないか少しだけ心配したけど、梓はいつも通り窓を開けて待っていてくれた。


 そうしてしばらくは窓越しに梓と会話をした。大体俺が喋って梓がつまらなそうに言葉を挟むだけ。それでも、梓が俺を拒絶しないで受け入れてくれるだけで十分だった。


 ただ、一つだけ厄介なのは、雨が降った日はさすがに行けないことだった。


 窓越しでは梓の部屋に雨が入るし、傘があると塀を越えて侵入できない。


「あんた、いちいち不法侵入するの大変じゃない?」


 ある日、不意に梓が言った。


「親やお手伝いさんに話はするから、次回以降はちゃんと玄関から入ってきなさいよ。それに、いつまでも外じゃ雨の日来れないでしょ?」

「いいのか?」

「と……友達……なら、家に上がるのも普通でしょ?」


 梓は顔を真っ赤にしていた。


 なんだかんだ口は悪いけど、梓は優しい奴だ。


 毎日話している中で、それは理解できた。ツンデレってやつなのかな。可愛いからなんでもいい。


「だな!」


 俺はとうとう梓から友達だと思ってもらえた。


 その日はるんるんとスキップしながら帰った。


 それから、俺は梓の家に入れてもらえるようになった。


 両親は共働きみたいで、家政婦さんが俺を快く迎え入れてくれた。


 梓の部屋。初めて入った女の子の部屋は、動物のぬいぐるみがたくさん置いてある可愛らしい空間だった。


「じろじろ見るな。追い出すわよ」

「それは困る。せっかく家の中で梓と話せるのに」

「もう……まあいいけど」


 梓はため息交じりに笑みを溢した。


「お! 梓の笑顔やっと見れた!」

「な!?」


 慌てて梓は顔を隠した。可愛いのになぜ隠すのか。


「やっぱ梓は笑顔の方が可愛いな。ずっとそう思ってたんだよ」


 始めて見た時から、この子は笑ったら絶対に可愛いと思っていた。俺の見立てに間違いはなかったな。


「なあなあ、もっとちゃんと梓の笑った可愛い顔を見せてくれよ」


 梓は手でずっと顔を隠している。


 隙間から時折見える頬は熱でもあるみたいに真っ赤に染まっていた。


「うるさい! 変なこと言うな!」

「可愛いのは事実だろ? 素直に受け取れよ!」

「う、うるさい!? そうやって褒めるな!?」 


 結局、その日は梓が可愛いか可愛くないか談義で一日を費やした。


 梓も少しずつ心を開いてくれている。これからもっと仲良くなるぞ。


 そうして予定がない日はずっと梓と話していた。


 最初は俺のことを邪険にしていた梓も、気づけばだんだんと表情も俺への当たりも柔らかくなって、可愛い笑顔も増えてきた。


 楽しくて、ずっと続けばいいと思った毎日。だが、それも長くは続かなかった。


「ねぇ大雅……私、たぶん死んじゃうみたい」

「え……」


 ある日突然言われた言葉。俺は意味がわからなくて、いや、違う。突然の衝撃でただ言葉を失っていた。


 梓の病気については何も聞いてない。いや、聞かないようにしてた。たぶん、簡単な病気じゃないと思ったから。


 普通の人間はずっとベッドで生活なんてしない。俺はそれから目を逸らしていた。


 だけど、梓は悟ったような顔で平然としている。


「大雅には言わなかったけど、実は最近体調が良くないの」

「もしかして……俺が押しかけて悪化したのか!?」

「違う! 私がいいって言ったの。大雅との時間だけは奪わないでほしいって。だからね、大丈夫」


 なんでそんな諦めた風に笑うんだ。


 大丈夫。梓は仮面を張り付けたような笑顔を見せた。その笑顔は、俺が好きな笑顔とは程遠い、無機質なものに見えた。


 心と体が分離している。そう感じざるを得ないほど、作りものの笑顔だった。


「なにが大丈夫なんだよ!? 死ぬかもしれないんだぞ!?」

「仕方ないの。いつかは来ると思っていたから」

「俺は……お前に死んでほしくない」

「でもこうしてずっと家に閉じ込められているのはさ、死んでいるのとどう違うのかな」


 何もかも諦めたように、薄く笑った。


 梓はこの部屋から見える景色しかしらない。本人がそう言っていた。


 俺のように外を走り回ったりすることはできない。


 梓の世界は、子供部屋にしては大きいこの部屋しかないんだ。


 閉じ込められる。そうなのかもしれない。きっと色々な人の想いがあって、梓はここに囚われている。


 梓が生きるために、それでも可能な限りの自由を与えた結果なのかもしれない。


「お前はまだ生きてる。死んでなんかいない。それだけはたしかなことだ」


 でも、そうだとしても死んでいるのとは絶対に違う。


 死人とは……会話だってできないんだ。どれだけ泣いて喚いたって絶対に返事をしてくれない。


「大雅……」


 俺は力強い視線を向ければ、梓は困ったように視線を下げた。


 梓はまだ死んでない。母さんとは違う。


 まだ、会話ができている。それは死んでないからできることなんだよ。


「でもね……私の病気は治らないの。原因不明なんだって。だから、誰にも治せない。悪くなるだけなの。だからもう……時間の問題なんだよ」


 顔を上げた梓の瞳から、透明な雫がぽたぽたと頬と伝って落ちていく。


 零れた水滴はパジャマを濡らし、ベッドにもシミを作って、その範囲はどんどん広がっていく。


「やりたいこと、まだ色々あったのになぁ」

「梓……」


 俺はなんて声をかけていいかわからなかった。


 張り付いた笑顔の裏にあった、彼女の本心。


 そんなことない。絶対大丈夫だ。きっと治るよ。上っ面の言葉をかけたって、かえって梓を苦しめるだけな気がして、俺は口を噤んでしまった。


 慰めたかったのに、今を当たり前のように生きている俺がかけられる言葉なんて、その実なにもなかった。


「外に出て遊んでみたかった。友達たくさん作ってみたかった」


 梓は色々やりたかったことをひとつずつ声に出した。まるでもう叶わない夢のように。


 胸が苦しい。俺は……何もできない。目の前で涙を流す少女に何もしてやれない。


 俺は無力だった。それが、たまらなく悔しかった。


 悔しくて泣きそうになった。でも、俺が泣いちゃいけない。苦しんでいるのは梓だ。


「ねぇ大雅……私、まだ死にたくないよ……せっかく、友達ができたのに……まだ終わりたくないよ……」


 最後に堪えきれなくて溢れた梓の本音。


 それを皮切りに、梓は大声で泣き始めた。


 俺は梓を抱きしめた。初めて抱きしめた梓の体はビックリするほど軽く、本気で抱きついたら折れてしまいそうだった。


 大切な人が死ぬ。目の前で車に轢かれた母さんの姿が脳裏によぎった。


 そんなのは、嫌だ。


「俺が……なんとかする」

「大雅……?」


 できもしない慰めはかえって梓を傷つける。それがわかっていながら、俺は大見得を切ってみせた。


「絶対に俺がなんとかする。だから、泣くな梓」


 梓の頭を優しく撫でた。


 俺は酷い男だ。医者も治せないような病気を俺がなんとかできるわけがない。


 それでも、目の前で涙を流す少女を放っておくことはできなかった。


 だって、俺は初めて見た時から梓のことが好きだったんだから。


 好きな女の子の前で格好つけられなきゃ男じゃない。


「ありがとう……期待しないで待ってる」


 泣きながら笑う梓を見て、俺の胸はさらに苦しくなった。


 お互いに、心では無理だとわかっているのにそれを口にはしなかった。そうしたら本当に折れてしまうから。


 帰り道、俺はひたすら走った。体力の限界が来てもずっと走った。あふれ出る涙を置き去りにするように走った。


 何もせずに諦めたくない。でも俺には何もできないのはわかっていた。そんな感情を振り払うように、俺は走った。


 無我夢中で走って、気づいたら俺は変なところに来ていた。


 木材でできたような古めかしく、どこか異質な雰囲気を保った家。


 誰が住んでいるのかもわからない。俺はまるで導かれたようにその家の前に立っていた。


「おやおや、こんなに小さいお客人とは珍しい」


 軋むドアの音。


 軽快な声と共に中から出てきたのは、白衣を着た怪しげなお姉さんだった。

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