Report 5 人魚と未知の邂逅について
さらさらという水の音。川の音とも違う、大きな流れのある波の音。それが浜辺の小波の音だと初めは気が付かなかった。聞いたことのない、初めての音だった。そしてそんな音で、僕は目覚めた。
瞼を開けると、一面の水の向こう側から日が昇るところだった。随分長い間太陽を見ていなかったから、ただの日の出がそれはそれは美しく見える。
これが水平線。これが海。これが、あんなに恐ろしかった、海。
背筋がぞっとした。何が起こったのかを一気に思い出して叫びそうになった。
そしてあんな悲惨な出来事があって、恐ろしい生物がいたというのに、海というものはこんなに素知らぬ穏やかな顔をするのかと慄いた。
……どうやら助かったらしい、と思うと同時に、これからどうしようかと、ぼんやりと、考える。
流れ着いたのは小さな島らしい。砂浜と数本の木と多少の草地がある程度の、数十秒もあれば歩き回れる程度の、本当にささやかな島だった。生物の気配は、僕以外には無い。
ニックは大丈夫だろうか。他に生き延びた研究者はいただろうか。襲ってきたあの男は何者だろうか。思考はどんどんぐるぐる回る。
ホムンクルスだから、僕はあまり食べなくても大丈夫。栄養は生命維持じゃなくて専ら身体修復に使われるから、怪我でもしない限りはしばらく食事の心配もいらない。同じくニックだって、海に落とされてもそうそう死にはしないけれど……いや、あの水龍みたいな巨大な生物には無力、か。僕だって死んでないのが不思議なくらいなんだし。
……そう、死。最後に見た博士は死んでいたし、僕らホムンクルスだって潰されれば死ぬ。例えば、龍に食べられる、とか。
ますますニックが心配になってきたけれど、彼が今どこにいるのかも、そもそも僕がいるのがどこなのかも分からない。見渡す限りの海。研究所があった崖も、人がいそうな陸地も見当たらない。あまりに絶望的だった。
……疲れてしまった。考えることにも、見ることにも。
少し泳いで気分転換でもしようかな。幸い人魚は水中にいるだけで幸せになれる種族だし、辺り一面は水だらけだ。現実逃避にはもってこいだし。海に少しだけ苦手意識が芽生えているけど……もう、どうでもいい。どうなってもいいや。
そっと、海に入ってみる。
どこまでも青く透き通る水。
差し込む陽の光。
水上の生物の気配の無さとは打って変わって、色鮮やかに舞い踊る大量の魚。
海藻や巻き貝を溢れんばかりに湛えた岩礁。
これが、海。
いや、違う。これ“も”、海なんだ。きっと。
小さな魚たちが僕を視界に入れ、撫でるように側を泳いでいく。名も知らぬ海藻が意思を持ったように揺れ動く。
どこからともなくやって来た亀が僕の周りを旋回していく。僕と同じぐらいの大きさの魚が僕を何度も撫でて去っていく。
僕が泳ぎだすと、僕の進行方向に緩やかな水流がひとりでに生まれる。いや、違う。周りの魚が僕と一緒に動いているんだ。
どうやら僕は、歓迎されているらしい。
人魚だからかな。魚にも分かるのかな。一応ホムンクルスなんだけど。
しばらくゆったり泳いでいると、さっきの亀が何かを咥えてやってくる。見れば、くったりと力のない魚らしかった。
そしてそれを僕に差し出す。とりあえず両手を差し出して受け取ると、亀は満足気に去っていった。
……手に持った魚は恐らく死んでいる。
それを自分で食べるでもなく僕に渡すというのは、食えということだろうか。治療のしようもないからどのみち食べるか捨てるかしかないんだけど。
しかし、亀に餌付けされるのは……うーん。まあ、こうやって歓迎してくれてる魚をわざわざ殺して食料にするのは気が引けるし、ありがたく貰おうかな。
調理はできないけど、ホムンクルスは腹を下すということがないから生でも食べられるはず。食欲は無いんだけど、とりあえずお腹に入れるだけでも違うかな。
鱗を軽く剥いで、皮ごと口に含んで噛みちぎる。
初めて食べた海の魚は、海水でしょっぱくて、生だからか嫌に瑞々しく肉々しくて川魚とはまた違った生臭さが鼻に抜けて……。
変に一心地ついてしまったと言うか。腹にものが貯まる感覚が、詰まっていた息を吐き出す感覚が、その生臭い不快な気分さえもが、僕に“生き延びた”という実感を沸かせた。
正直なところを言うと、“僕”はあの時飛竜に焼かれて完全に死んだつもりだし、ホムンクルスとして目覚めてからも生きているという実感はあまりなかった。研究所での日々も、生前そこそこに頑張った細やかなおまけ、程度に感じていたんだ。
でも今、僕は事実として生きている。生存しているし、それ以上に1生命体として、食べるでも寝るでもない“生きる”をしている。泳いで喜びを得て、友を想って心を動かしている。
それが感じられて、少し、気力というか、体力というか。活力が湧いて出てきたような、不思議な気持ちになる。
こんなところでだらだらと過ごしている訳にはいかないな。
ニックと再会して、博士たちをちゃんと弔って、襲ってきたあいつを捕まえて、仇を討って……。やりたいことが次々と思い浮かぶ。そのためには一人じゃ無理かな。作り物とは言え人魚が人前に現れたらどうなるかなんて分かりきってるけど、それでも誰かの助けは必要だろうし……。
うん、生きてやる。生きてやるぞ。ホムンクルスだって、人魚だって、生きてやる。
……でもまずは、生き延びるところからかな。
見知らぬ海で遭難なんて、かなり絶望的だけど……生き延びて、それからやりたいことを一つずつ片付けていこう。
☆☆
とは言ったものの、どうやって生き延びようか。生まれてからずっと村暮らし山暮らしだったから、こんな島で生活できる自信がないんだけど……。
海水はそのままだと飲用には向かないって聞いたから、飲み水は水魔法で出すことになると思うけど、水だけで生きていく訳にはいかない。多分この身体ならしばらくそれでも行けると思うけど、水だけで何日も凌ぐとか考えるとまず僕の気が狂いそうだし。
かと言って食べ物を得るのは簡単じゃない。着の身着のまま逃げてきたから、手掴みで魚を捕るか、海藻を採るぐらいしか僕にはできない。いや、それだけできるだけで十分かもしれないけど。ニックなんかは魚を捕まえるのも一苦労だろうしな……。
幸い多少毒がある程度ならホムンクルスの丈夫な胃が消化してくれるけど、石や砂までは食べられない。いかにここ最近の僕らの食事が研究者に管理されていたかを思い知らされる。せめて道具の一つでもないと、人魚もちょっと早く泳げるだけで人間と大差ないし。
かと言って、その道具を手に入れるには……作る、しかないのかな。
あと、できれば火が欲しい。いくら問題無いとは言っても、やっぱり魚に生で齧り付くのは、精神的に、ちょっと。
……サバイバルって、案外難しいものだなぁ。子供の頃はそういう不便が楽しかった気もするけど、今こうして実際に死活問題になってみたら冗談じゃないって。
道具はない。道具を作る材料もこの小島にはない。他の人間には頼れない。
……なら、海か。
もう一度海に潜って、海底を見通す。見事に見たことのないものだらけだ。石のような生き物のような、その正体すら分からないものだらけだ。
海になら何か使えそうなものでもあるかと思ったんだけど……これは、厳しいか……?
「——」
ふと、何かが聞こえた気がした。……いや、気のせいじゃない。断続的に何か聞こえる。
人の声のような、洞窟の風鳴りのような、不思議な音。
「————」
それはどうやら、この大きなクラゲから発せられているらしい。
……え、怖っ。
「——……」
どうやら僕の驚きは口に出てたらしく、それを聞いてかクラゲは悲しげに萎んだ。……僕の言葉が分かっているのか?
海に親しみのない僕でもクラゲという生き物は知っている。いや、名前と見た目ぐらいしか知らないけど、つまり、この目の前の存在みたいに人間より大きくて人の言葉が分かる生物は普通のクラゲじゃない、ってことは確実に分かる。
じゃあこいつは普通のクラゲじゃなくて、魔物の類にあたるんだろうけど。魔物にしては大人しいよな……ちょっとだけ愛嬌もあるかもしれない。
と、そう思っていると、にわかにクラゲは膨らんでふよふよと動き出した。飛んで喜んでいるようにも見える。いやでも、僕はこいつを観察しているだけで何もしてないんだけどな……。
とりあえず、音の出処はこのクラゲだと分かった。じゃあもうこいつに用は無い……と言うとちょっと可哀想だけど、今は道具になりそうなものを探さなきゃいけないから、クラゲにはちょっと退いてもらって……退い……退いて……。
「……やけにしつこいなぁ」
「——」
クラゲが僕の視界に何がなんでも入り込んでくる。ぶっちゃけ邪魔なんだけど、クラゲに触るとあまりよろしくないと聞いたこともあるから、払い除けることもできない。ホムンクルスに大抵の毒は効かないだろうけど、何せまともな食料を確保できないから、僕は身体の損耗を極力無くすべきであって。
どうしたものかな、と考えていると、クラゲはこちらに一瞬その動物の頭のような形の触手を伸ばしかけて、はたと止まってから、海の底を指差すように触手を上下させた。……僕の腕を掴もうとして止めたんだろうか。それに、何度も誘導するように僕を引っ張る仕草をする。
「もしかして、どこかに連れて行こうとしてる?」
「——!」
クラゲはふよふよと上下に泳いで、恐らく指差していたのだろう方向へ進んでから、僕を窺うように制止した。本当に付いて来いと言いたいらしい。
……まあ、行く宛も無いし。悪意があって誘ってきているようにも見えないし。何より、僕一人じゃ何も進められない気がするし。
大クラゲの誘うがままに、僕は深海へと足を踏み入れた。……もとい、泳ぎ入った。
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