陽暮の街で

大枝 岳志

陽暮の街で

 家から一歩も出ない日が何日も続いた。着信が何度も入っていたけれど、私がその電話に出ることはただの一度もなかった。

 今からちょうど十日前、私は派遣先の部長から突然呼び出された。


「河藤くん、ちょっといいかな?」

「はい」


 職場のコールセンターに派遣されてから半年も経っていた頃で、そろそろ専任の仕事を任されそうな予感がしていた。研修を終えてからそれまで私のオペレーションに大きなミスはなく、淡々と知識を吸収して業務にあたっていた。

 私を呼び出した部長は申し訳なさそうな顔で私にこう伝えた。


「すまないけど、今期で契約は終了ということで」

「えっ? あの、どうしてですか?」

「社内の事情で、としか。本当に、今までご苦労様でした」

「あの。他の、私より仕事出来ない人もいるじゃないですか。この仕事、好きなんです」

「好きとか嫌いとかで仕事をされても……ねぇ?」


 クビを切られる理由が分からなかった。けど、友達も出来ず、休憩中も誰とも話さなかったことが理由だと、そんな下らないことが理由だったんだと、後になって派遣会社の担当から聞かされた。コミュニケーションを取るのも業務の一環だから、残りの期間は周りと上手に話を合わせてもらって、とかなんとか言っていたけど、その日の帰り道に電話で聞かされながら私の意識はもう別の所へ行っていた。でも、一体その意識がどこに行っているのかは私にも分からなかった。


 次の日、会社を休んだ。その次の日は、会社を無断欠勤した。何もかもどうでも良くなってしまった。

 私は派遣先で自分の仕事よりも人間性を見られていたみたいだった。

 人間関係は昔から苦手で、大嫌いだった。友達が出来ても長続きしないし、そもそも誰かと遊びたいという欲も湧いたことがなかった。

 友達になった子がどこにでもいるような誰かになる瞬間の顔が、横で見ていて心底嫌いだった。


 部屋にいるうちにそのうちカーテンを開けるのも面倒になって、いつの間にか薄暗くなって行くベッドの上でいつまでも横たわっていた。

 東京でも都心ではないこの街に訪れる夜は早く、季節が冷える速度を横たわったまま、じっと頬で感じ取っている。それが最近の私の仕事、そして私事だった。


 何度も入っていた着信は全て派遣会社からだった。

 それ以外は誰からも、どこからも、着信は入って来なかった。

 世界中の誰も、私に用事がないことをその時になってやっと知った。


 私はこの世界でたった一人、取り残されてしまった気分になっていった。私を置いてけぼりにして、世界は駆け足で大人になって行く。 

 セメントで固めたみたいな笑顔で杯を酌み交わしたり、ウィットに富んだという軽い冗談を言い合ったり、胃袋に落とす物の写真を撮ったり、腹に溜め込んだ怒りを褒め言葉と溜め息に変換してみたり、そんな大人の世界だ。


 嫌いだから爪弾きにしたんじゃない。私が、不要だと爪弾きにされていた。そんなことを考えていたら段々と死にたくなって来て、カーテンの隙間から見えたオレンジ色は朝方なのか、それとも夕暮なのか、考える力も次第に失せて行った。

 

 一週間以上もそうしていて、何を食べて過ごしていたのかハッキリと思い出せない。

 今生きているから、きっと何かを食べ続けていたのは確かなのだけれど、覚えてはいない。なんとなく、麺類が多かった気がする。

 それでも私は生物として生き続け、毎日何かを消費して生きている。

 だから、ティッシュがなくなったことに気が付いて、少し焦った。

 何をするにも面倒で、億劫で、箱ティッシュがなくなってからはポケットティッシュを日用使いして過ごしていたのだ。

 

 時計を見ると五時五十分。きっと、外は夕暮れ。 

 幸せを願っていた時期に買ったピンクとイエローのビビッドな財布だけ持って、久しぶりに外へ出てみた。

 太陽が落ちた跡はインディゴに染まっていて、その上空には暗く、濃いオレンジ色が広がっている。

 風が強く吹いていて、その風は遠くではしゃぐ子供の声を私の耳に連れて来る。

 住宅街を沈んだ太陽の方向へ、一歩一歩進んで行く。

 暗い空に暗いオレンジがぼんやりと広がっている光景は、立ち並ぶ軒先を抜きにしたらまるで地獄みたいな風景だった。

 秋ってこんなに濃かったんだ。そんなことを思いながら歩いていると、背後からパタパタと足音が聞こえて来た。

 

「はい!」


 その声に振り返ると、髪の毛をセーラームーンみたいにツインテールにした小さな女の子が私を見上げていた。

 全然汚れていない大きな瞳にじっと見つめられてみると、何故か少しだけ心が不安になった。

 女の子は両手で大切そうに、私のバカみたいにビビッドな色の財布を握っていた。


「おねえちゃん、これ。落としたよ」


 あ、この子。財布を拾ってくれたんだ。

 私は同じ目線になるようにしゃがんで、財布を受け取った。女の子の背中の向こうに、この子のお母さんが立っているのが見えた。


「拾ってくれて、ありがとう」


 そう伝えると、女の子は照れているのか、もじもじしながら私の財布を指差した。


「これ、かわいい」

「この財布?」

「うん」


 女の子は全身の力で伝えるみたいに、大きく頷いた。

 そっか。バカみたいな色の財布も、この小さな女の子にはそんな風に見えるんだ。

 私は少しだけ不安になり掛けていたものが軽くなって、それでも、どう答えて良いのかも分からなかったから「ありがとう」と言って再び歩き出した。

 背後で女の子の足音が遠去かるのを聞きながら、私はひとりぼっちで赤黒くなった空へ向かって進んで行く。


 そんなことないよ。と、女の子に言わなかった。

 全然かわいくないよ、バカみたいなこんな色。

 そう思っているのに、そう答えなかった。

 そっかそっか、そうだよね。心の中で自分にそう言い聞かせながら、何がそうなんだかも分からないけどそう言い聞かせながら、私は空の下に立つドラッグストアに向かって進んで行く。

 

 今日は明るい色の箱ティッシュを買って帰ろう。

 明日は、朝に起きてみよう。

 そんな所から、また始めよう。大人の世界から見たらきっととても小さな決心をしながら、私は空の下の灯りを目指して、真っ直ぐに歩き続けた。

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陽暮の街で 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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