小さき窓辺 【一話完結】

大枝 岳志

第1話

 人を殺めました。


 それも、立て続けに三人殺めたのです。無我夢中でいながらも、何処か冷静でした。それは良く晴れた日の昼時で、開けっぱなしの縁側から無断で屋内へ入り、刺しました。知らない家ではありませんでしたが、我慢ならなかったのです。

 胸元に包丁を刺したまま、年頃の娘の口からは素麺が飛び出していました。一本だけピンク色の素麺が見えたので、私は胸を刺されて素麺がそうなったものかと錯覚しました。無自覚のうちに頭がおかしくなっていたようです。

「残忍で身勝手極まりない卑劣な犯行」

 そう、言われました。そう言われても仕方のない事だと、捕まってから私は悪者に徹しました。親孝行のつもりでした。名誉を守りたかったのです。私が捕まり、死刑判決が下ると名誉を守られたはずの両親は廃人のようになりました。

 親孝行が裏目に出て、かえって親不孝をしてしまったのでした。

 テレビを観ながら小便を漏らす母の世話をしているうちに父までも虚になり、二人とも心を何処かに落としてしまったようだと、今となっては唯一外の世界と繋がれる弁護士に教えてもらいました。哀しい、と思いました。心がない人は死んだ人も同然だからです。

 愛しさの込められた声で「そうちゃん」と私の名を呼ぶ両親は、この世界からいなくなりました。


 私は海沿いの大きくも小さくもない街で、割と裕福に育ちました。お金に困る事はなく、大学へ通いながら家族五人、両親と、私と、弟二人で仲睦まじく暮らしていました。自慢する訳ではありませんが、近所でも評判の仲の良い家族でした。我が家の隣には小さな平家建の一軒家があり、私が物心ついた頃にはもうボロボロでした。そこへ越していた「金村」という一家に、私の両親は近所のよしみで目や手をたくさん掛けました。見るからに貧しいその暮らしぶりを見兼ね、金の援助も時折していました。隣人と言えどただの他人に何故そこまでするのかと言えば、我が家が入信しているある仏教系の信仰宗教の教えが元となっておりました。他人の痛みを自分のものと思いなさい、という教えがあった為です。

 教えに従い、彼らを助けました。金村の娘が小学校高学年になる頃、我が家の経済が傾きました。建設会社を営んでいたのですが、押し寄せる不況の波に呑まれたのです。

 すぐ近くまで波がやって来ているのを知りながら両親は金村に施しを与え続け、食事を切り詰めてまで教団へのお布施に励みました。お布施をする者には徳があると、宗教の偉い人達から耳が壊れるほど言われていたのです。それをしない者には仏罰が下されるとも、言われておりました。それは愛を用いた恫喝のようでした。


 私が大学へ入る頃、金村家にある変化が起きました。住んでいたボロボロの借家を買い取り、大きな家を突然建て始めたのです。噂によれば宝くじを当てたとも、万馬券を当てたとも、遺産を相続したのだとも、街では言われておりました。何故そんな噂が出たかと言えば、金村の主は酒飲みで足が悪く、到底まともな職には就いていないと思われていたからです。


 金村家は我が家よりもひと回り大きな家を建てると、主の様子が一変しました。まず、態度が横柄になりました。普段はペコペコしながら我が家から施しの金を受け取っていた主でしたが、一丁前に庭先に用意したチェアに腰掛けて葉巻を吸いながら我が家へ軽々と挨拶するようになりました。私の父は経済の困窮の為に社用のベンツと、それから仕事用の大きなバンを売り払い、安物の中古の軽バンに乗り換えておりました。そのタイミングで、金村家は新車のベンツを買いました。いつも通り庭先で葉巻を吸いながら、金村の主はこんなことを私の父に言いました。


「貧乏というのはやはり、見ている方がなんとも言えない惨めで嫌な気持ちになりますなぁ。そういえばご主人、あのベンツはどこへ行ったんですか?」


 にやにやと笑いながら、そう言いました。父はグッと堪えたそうです。怒りの為に目に血が昇ったと、言っておりました。それでも、耐えました。

 金村の主は金に糸目をつけませんでした。まだ新築の家のあちらこちらを直すと言い出し、我が家にその施工を頼んで来ました。仕事が終わると金村の主は私の父を連れ出し、連日のように街のあちこちの飲み屋へ顔を出すようになりました。


「こいつはうちで持っているんだ。仕事を与えてやってるんだよ。偉いだろ? でもな、ハテルマ様の教えを俺はただ実践してるだけなんだ。それなのに、うちが困った時には雀の涙ほどの金しかこいつは渡さなかった。いーや、恨んじゃいないさ。本当の施しというのがどういったものか、俺が教えてやっているんだ」


 信者歴で言えば我が家の方が圧倒的に長いはずなのに、教団内でも我が家の「信仰心」というアイデンティティは金村の主によってあっさり奪われてしまいました。ある事ない事を、沢山噂されました。無論、否定はしました。しかし、一度土がついた人間というのはどう足掻いてみても「そう」としか思われないものなのです。足掻けば足掻くほど、我が家はあの街の中で恥と困窮の背嚢を重くして行ったのです。


 初めに、弟二人が学校へ行かなくなりました。理由を尋ねると、金村の娘から「私の家の家来だから、みんなの家来にしていい」と言われていたそうなのです。

 ある日の帰り、すぐ下の弟はべたべたに濡れた学生鞄を持って家へ帰って来ました。一体それはどうしたんだと尋ねると、弟は無理をしているように笑いながら


「給食の残飯、入れられた」


 そう言いました。金村の娘に「今日の大食缶」と指名されたそうです。金具に挟まったままの白滝は、弟が自己防衛の為に無理に笑うたび、空しくぷらぷらと震えておりました。


 しかし人間という生き物は目に見える世界に敏感過ぎるのか、嫌でも何かを感じて生きてしまうものなのです。結局は学校へ行くのが嫌になり、中学生の弟二人は揃いも揃ってカーテンの閉め切った部屋に篭るようになりました。

 いつか待っていれば時間が光を運んでくれるだろうと、そう願いました。金村から大きな額のお布施を受けていた教団もそう、言っておりました。それでも、私達に救いはありませんでした。流れゆく時間は空の星ほどの光さえも徐々に奪って行き、光なき私達の現状をただ単に腐らせるだけでした。


 父の会社はいよいよ立ち行かなくなり、家にも頻繁に取立て人がやって来るようになりました。そんな中でも、我が家は信仰を捨てませんでした。溺れる者は藁をも掴むというのは、本当のようでした。あれは父がなけなしの金を教団にお布施へ行った日の事でした。

 受付の女性は父がお布施を渡そうとすると、それを拒みました。そして、生ごみでも見るような目で私と、父を眺めながらこう言いました。ハッキリと、言いました。


「金村支部長から聞いてますよ。人から借りたお金でお布施をするなど、冒涜です」


 あの金は借りた金などではありませんでした。父が知り合いの建設業者から何とか一日分の仕事を回してもらい、必死に汗水垂らして稼いだ金だったのです。

 その頃の私は大学の二回生でしたが、いよいよ進路に迷いました。金を稼いで、そうしてこの一家の足しにならなければならない。そう、思いました。しかし、父はそれを拒否しました。


「今辞めてしまったら俺みたいに立ち行かなくなる。金はなんとかするから、立派に卒業してくれよ」


 そう言って、笑っていました。母も優しく、頷いておりました。その心に、泣きそうになりました。嬉しくて泣きそうになったのでは、ありませんでした。悔しく、そしてなによりも惨めだったのです。そんな言葉を言わせてしまう経済状況や、暗い場所に無理に明かりを灯そうとする健気さや、親である自負心が、ただただ、悔しくて惨めだったのです。


 私を学校へ行かせる為、父は暴挙とも言える行動に出ました。夏の日の夕方でした。父は金村の主に、多額の借金を申し込んだのです。すると、金村の主の怒鳴り声が住宅街に響き渡りました。


「金もないくせにバカ息子を大学に行かせる方が悪いんだろう! この身の程知らずが! 貧乏ったらしい目をしていつもうちをジロジロ見やがって!」


 怒鳴りながら、金村の主は歩行の為に普段使いしている杖で頭を下げる父を滅多打ちにしてました。止めに入ろうとすると、今度は私がこう、言われました。


「おまえは貧乏なくせにうちの娘を狙っているんだろう!? ええ!? 目つきで分かるんだよ! おまえら家族は長い間ずいぶんとうちの家を貶めてくれたな! 金がないだの貧乏だの、触れ回っていたそうじゃないか! そうだろう!?」


 それは違いました。心からの施しでした。その噂を触れ回っていたのは矢崎という中年女性で、別名「スピーカー」と呼ばれてました。それを知ってか知らぬか、金村の父は怒りの全てを私の父と、私にぶつけて来ました。あの頃は頼んでもないのに金を無理に渡された、とも嘆いていました。徳を積みたいだけの強欲な悪魔だと罵られ、信者の多い近所の人達にその話がすぐに広まりました。私達は、その土地でとうとう生きて行かれなくなると自覚しました。


 晴れた日の昼。大音量で点けられているのど自慢の鐘の音が外にまで漏れて聞こえておりました。庭先でその音を聞いているうちに、私の中で何かが音もなく壊れて行くのが分かりました。

 台所にあった砥がれたばかりの包丁を手にすると、庭と庭の間に立てられていた柵を乗り越えました。黒い鉄柵は太陽の熱を存分に吸って、とても熱かったのを今でも覚えているのです。


 金村の家へ縁側から身を忍んで入り、テレビに夢中になって笑い声をあげていた母の背中を、先ずはひと突きしました。脂身の多い身体の為か、包丁は割とすんなり入り、するりと抜けました。悲鳴をあげる娘に向かって今度は包丁を振り回して威嚇し、次に足の悪い金村の父の頭上目掛けてそれを振り下ろしました。腰が引けたのか、尻をつきながら後ずさっておりました。砥いだばかりだったのが功を奏したのか、包丁は綺麗に主の鶏ガラのような薄い頭に突き刺さりました。思いの外、出血はありませんでした。少し硬めのスイカのような、そんな感触でした。まだ中学生の娘をたった一人で生かせておくのも不憫だと思い、私は


「静かに」


 と努めて優しく声をかけ、時間を掛けてゆっくりと性交をしました。恐怖の為なのか、あまり濡れておらず滑りも悪かったのですが、私の行為は無事に済みました。ちっとも、気持ち良くはありませんでした。行為の最中、自分でも何をしているのか、どうして身体がそうなるのか、さっぱり分からなかったのです。それでも、そうする他ありませんでした。その時の事を思えば、最低の人間は憎しみで人を抱けるのだと、後からそう感じたのでした。


 行為が済んでから娘の口を塞ぐと、そのまま胸元に刃を突き立て、料理油が滲みて汚れた柄に体重を乗せました。それからすぐに耳元で蛙が押し潰れたような低く短い悲鳴のようなものが聞こえたので、視線を娘の顔の側に落としてみると、口元から素麺が吐き出されておりました。一本だけピンクの素麺が目につくと、それが刺し傷によるものなのかと、思わず私は戸惑いました。


 三人共動かなくなったのを確認してから、一本、葉巻を頂戴しました。全く旨くもなく、箱を改めて見てみるとそれは巷で売られている中で一番安物の葉巻だった事に気が付きました。私の友人で煙草が好きな者がいて、安物はダメだと教えられた事があったのでした。その時、彼が指をさして小馬鹿にしていた葉巻が、金村の主人の吸っていた葉巻だったのです。

 座布団を重ね、火を点けました。あっという間に部屋中に火の手が上がり、全てが燃えました。三人共、仲良く並んで燃えました。その時は人を殺めた興奮はなく、かえって冷静な気持ちでいられたのです。心が凪いでいると、感じておりました。庭先から家の中を覗き、燃え上がる三人を眺めながら


「地獄へ堕ちろ」


 そう、思っておりました。

 辺りはすぐに騒ぎになり、私は間もなく捕まりました。そして、留置所、拘置所へ入れられました。すぐに死ぬべきだと思っておりました。人を殺めても後悔の念など覚えず、謝罪の言葉のひとつも浮かばず、社会的に有害無価値、無存在こそが相応しいこの命は、不思議な事にその後も消される事なく、今日もここに在るのです。生きている理由が分からないなどと、そんな生優しい類の感情ではありません。何故今日も生きているのか、その原因が分からないまま命だけが生きているのです。


 留置所や拘置所など、何度か移送されましたが、結局は塀の外へ出る事はありませんでした。

 外の景色を眺めたのはもう二十年も昔になります。世の中は幾分変わったのだろうと思案しますが、最早私には何ら関係もなく、ましてや関わってはならないものなので自然と意識はしなくなりました。


 朝起きてぼんやりしていると、時々ですが鍵の束の音と共に複数の刑務官がやって来ます。前回は私の右前の檻の前で、彼らは足を止めました。そこには私と同じく、やはり殺人を犯した安岡という男が収監されてました。


「出ろ」


 そう言ったのは、その前の日に安岡と言葉を交わしていた中年の刑務官でした。前日、刑務官は昼寝をしていた安岡に向かって


「おう、調子はどうだ? 外は天気がいいぞぉ。山吹が咲いているよ」


 などと、和かにそんな言葉を掛けてました。

 今日、刑務官が安岡に掛けたのは季節の知らせではありませんでした。抗いようのない、死の知らせでした。


 出房を嫌がり、安岡という男は喚き始めました。死にたくない、帰りたいと言って騒いでました。人を殺めておきながらも死にたくない、という身勝手な心情は理解出来たのですが、帰りたいとは一体どういう心情なのか、私には分かり兼ねました。私達に帰る場所など、とうの昔に何処にもないはずなのです。帰りたい、帰りたいと駄々をこね、暴れておりました。

 しかし、安岡は連れて行かれ、ここへ戻って来る事はもうありませんでした。母ちゃん、母ちゃん、という声が廊下の遠くの方から聞こえて来て、扉の閉まる音がするとぴたりと聞こえなくなりました。


 格子のついた小さな窓から外を眺めてみると、外の景色は味気なく、塀だけが確認出来ます。しかし、何も無い訳ではありません。塀の端には山吹が植えられていて、視線を向けるとかろうじてそれが覗けるのです。暖かな日が続いている為か、黄色い花を見事に咲かせておりました。ふと、ここへ来て何度目かの春なのか、数えようとして止めました。指を折り重ねた分、息をするのも面倒になりそうなのでした。山吹の黄色を熱心に私は見つめ、ただ、ここに春がある事だけを感じようとしていたのです。


 今朝もそんな朝を過ごしていると、鍵の束と複数の足音が束になって聞こえて来ました。こんな瞬間は、胸が嫌でも高鳴るのです。犯行ではなく、生まれた後悔を洗い流すように汗が湧き出て、身体を冷やして行きます。その癖、手に浮かぶ汗だけはぬめぬめと、希望を掴むのを拒むように卑しく浮かび続けるのです。


 足音が近付いて来ます。どんどん、近付いて来て、他所の舎房ではなさそうな気配が伝わって来ます。吐気を覚え、意識が白みそうになりました。呼吸も浅く、早くなって行きます。足音は止まる事なく、どんどんこちらへ向かって来ます。私は窓の外へ目を向けたまま、山吹だけを眺めておりました。すると、背中の方で規則正しく、足音が止まりました。これは正しい者達の足音だ、そう聞こえました。それでも私は突っ立ったまま、僅かに見える山吹だけを熱心に眺めておりました。

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