第10話

 その日は満月だった。大学というところは24時間営業で、普段であればどこかしらの研究室で必ず明かりがついている。しかし、今夜の2号館は別だ。柳之介りゅうのすけ朝日あさひは懐中電灯片手に、静まり返った2号館の階段を並んで昇っていた。


「これで注射はしなくていいんですよね」

「うん」

「本当ですね。約束してくれますね!?」

「うん。きみ、しつこいな」


 今夜の朝日はいつにもまして不機嫌が顔に出ていた。不機嫌というよりは緊張だろうか。神経がピリついている。


 2号館には二人以外誰もいない。朝日が根回しして夕方から立入禁止になっていた。国お抱え対幽霊特殊部隊の力はどうやら伊達じゃないらしい。


 朝日から「血まみれ教授」について調べてほしいと依頼を受けてからの柳之介の仕事ぶりと言ったらそれはそれは早かった。


 以前図書館で「血まみれ教授」を見たと言っていた坊主頭に接触し、幽霊を見た時の状況を事細かに確認した。あまりに根掘り葉掘り聞いたので坊主頭がまた思い出しビビりをしてしまったのが大変申し訳なかった。それから、坊主頭の彼女や2号館の住人たちにやいのやいのと聞いて周った。風貌、背丈、歩き方、聞いた話のどれもが、みんなが同じ幽霊を見ているということを証明していた。さらに、柳之介は「血まみれ教授」の法則に気がついた。


「血まみれ教授」の噂が出始めたのはここ2、3年。現れるのは夜の10時から2時の間。決まって2号館5階の廊下に姿を見せる。


 基本的に2号館の廊下はいつも暗い。電気をつければいいだけの話なのだが、なぜだかみんな部屋の隙間から漏れる明かりを頼りにし、廊下の電気をわざわざつけたがらないので、いつだって廊下は仄暗かった。


 そして、これは今まで誰も気が付かなかった法則だが、「血まみれ教授」は日曜日に現れる。それ以外の曜日に見たというものはいない。


 柳之介は首を傾げた。


「日曜日に亡くなったんですかね」

「どうかしら…」


 ここから先は朝日の仕事だった。これもこれであっという間だった。彼女は警察とも繋がっているらしい。その結果「血まみれ教授」の正体はおそらく3年前に自殺した院生の青年だろうとのことだった。正確には元院生。彼は大学を中退後しばらくしてから飛び降り自殺をしており、その事実を知るものは学内にほとんどいなかった。


 柳之介と朝日は4階の踊り場まで来ていた。時刻はもうすぐ10時。ここを登れば「血まみれ教授」がいるかもしれない。柳之介はそのまま進もうとしたが朝日に制された。二人は懐中電灯を消した。


 今宵は満月。明り取りから冷たい月光がこぼれ落ち、暗闇を仄かに照らしていた。朝日は5階をまっすぐ見つめていた。


「実は、「血まみれ教授」はここ以外にも現れるの」


 朝日の声はいつものように淡々としていたが、わずかに緊張感を漂わせていた。柳之介は生唾を飲み込んだ。


「発端は鈴木歩からの通報。知らない男がずっと部屋を覗いてるって。だけど警察はその男を見つけられなかった」

「どうして?」

「その男が幽霊だったからだな」

渉青しょうせい


 柳之介の隣にいつのまにか渉青が立っていた。顔にはいつもの飄々とした笑みを浮かべている。


「渉青さんの言うとおり。鈴木さんが言うにはその男は白衣を着て血まみれだったって」

「おぉ!」


 点と点が繋がった。朝日はこくりとうなずいた。


「そんな男がうろついてたら普通はすぐに見つかるはずよ。でも見つからなかった。警察にも感のいい人がいてね。これは幽霊の仕業じゃないかってことで私が呼ばれた。だけど、その割に妙に執着心がなくて、私がいるときには全然出てこない。だから、鈴木歩の家に結界を張って注意はしていたんだけど…」


 朝日はそこで何かを考えるようにしばらく口を噤んだ。沈黙を破ったのは渉青だった。


「お嬢さんのせいじゃないさ。悪いのは霊だ」


 ぶっきらぼうにそう言う渉青に、朝日は驚いたように瞬いた。一瞬瞳が潤んだように柳之介には見えた。


「うん……。鈴木歩は今入院してる。原因不明の体調不良。それから…しばらくして、たまたま大学で「血まみれ教授」の話を聞いたの」


 それで柳之介にいろいろと調べさせたのだ。


「「血まみれ教授」の正体はおそらく、山本光、享年25歳。鈴木さんとは在学中研究室が一緒だった」


 柳之介は眉を顰めた。


「鈴木さん? 恨まれてたんですかね…?」

「おそらくかなり。調べたら山本光は研究室でいじめを受けていた。内容は…結構酷い」


 警察からいじめの詳細を聞いたのだろう。朝日はあからさまに眉間に皺を寄せた。


「多分それが自殺の原因。そして、同じ時期に研究室にいた他の5人のところにも山本光の幽霊が現れていることが分かった。そのうち3人は鈴木と同じように体調に影響が出てる」

「えっ」


 驚く柳之介の隣で渉青は妙に納得したように鼻を鳴らした。


「狙いはその6人か。毎日律儀にお礼参りして、週の最後はこの学校ってか」

「どういうこと?」


 渉青は柳之介に師匠っぷりを発揮した。


「決まった日にしか現れないって変じゃないか。まぁ、中には雨の日にしか現れないとかそういう霊もいるにはいるけど、普通はどこか別の場所にいるんじゃないかと俺なら考える」

「ほう」

「山本って霊の狙いは同じ研究室にいた6人。週の6日はそいつらの所に通ってたんだろ。だから大学には日曜しか現れない。なんで日曜なのかは知らんが、気持ち悪いくらい規則正しい霊だな」

「それって大学そのものにも恨みがあるってこと?」


 柳之介の疑問には朝日が答えた。


「それは多分無いと思う。今まで特に被害にあった人はいないから。だけど、ここには何か山本の大事なものがあるんだと思う。そう考えれば合点がいく。鈴木含め6人の周囲には強い執着は感じられなかった…」

「幽霊は人や物や土地なんかに執着してこの世に居座るもんだからな。まぁ、未練ってやつだ」


 渉青は片眉を上げ、柳之介を見下ろした。そして、何かを思い出したように袂に手を入れると、朱色が鮮やかな懐中時計を取り出し、ぱかりと開いた。


「お二方、ついにこの時がやって来ましたぜ」

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