第9話
「
大学の食堂で、柳之介はすすっていたうどんを吐き出した。目の前では朝日が人形のように美しく無表情を貫いていた。柳之介はティッシュで口を拭き、念のため聞き返した。
「今、記憶を消すって言いました…?」
朝日は淡々と答える。
「そう。慰霊は本来一般人に見られてはいけない作業なの。幽霊の存在を確かなものにするわけにはいかないってのが上の考えね。だから、もし見られたときは記憶を消すの。普通はその場でやるんだけど、昨日はイレギュラーだったから消し忘れてた。だからこのとおり」
このとおり、とかなんとか言いながら朝日は頭を下げるでもなく、手を合わせるでもなく、淡々と真顔で「このとおり」と言っているだけである。
「消すって言ってもどうやって消すんですか」
「注射。ちゃんとピンポイントでそこの部分だけ記憶を消せる注射があるの。だから心配しないで」
「いやいや、やっぱり無理です。昨日のことは誰にも言わないので、心配しないでください」
柳之介のつれない返事に朝日はあからさまに大きなため息をついた。柳之介には分かったことがある。朝日は不満があるときだけは表情が豊かになるのだ。今は記憶を消したくないという柳之介の態度が不満なのだろう。そんなこと言われてもそんな得体のしれない注射なんか打ちたくない。
「そんなに嫌がられても強制的に打つ権利が私たちにはあるんだけど」
「えっ」
「まぁでも、一つだけ記憶を消さなくても良い方法がある」
「えっ」
「私たちの仲間になってほしいの。慰霊官…にはかなり実力不足だから、補佐的な立ち位置で。時給も結構良いと思うよ」
「お金出るんですか…!」
朝日がほんの少し、ほんの少しだけ微笑んだように柳之介には見えた。
「そうと決まれば早速調べてもらいたい案件があるの」
◇◇◇
「なんでそんな話受けたんだ!」
「だって一石二鳥だろ。渉青の幽霊を全て祓うっていう願いにも近づくし、バイト代も出るみたいだし…」
「あのべっぴんのお嬢さんともお近づきになれるしな!」
「な、そんなこと言ってないだろ。勝手に勘違いするなよな」
「はぁ〜どうだか。鼻の下伸びてるぞ、坊主」
柳之介は慌てて鼻の下を隠した。渉青が呆れたようにため息をついた。
「俺はおまえを弟子にすると言ったがな、プロにするとは言ってない」
「どういうこと?」
「あのお嬢さん、あれは本物だ。悪霊を祓うことに関してはかなりの腕前だ。俺みたいななんちゃって退治屋が四の五の言える相手じゃない」
「そんなにすごい人なのか…」
「悪霊を祓うってのは生まれ持った才能が大きい。俺や柳之介は人より少し才能があるくらいだ。プロにはなれない。アマチュアだ。そのうえで俺はおまえに「護身術」を教えている。格闘家を育てているわけではない」
柳之介はなんだか妙に納得した。今まで祓ってきた幽霊はみんなそれほど強くはなかった。渉青の言うとおりにやれば何の問題もなく祓えていた。
それなのに昨日の霊には全く歯が立たなかった。今までとはレベルが違ったのだ。だからこそ渉青は避けて通ろうとした。柳之介では太刀打ちできないことを知っていたから。
幽霊にしっかりと触れられたのも初めてだった。柳之介は首を手でさすった。あのとき確かに首を締められている感触が、あった。今でこそ痛みはないものの、今朝見たときにはまだ紐状の跡がうっすらと残っていた。昨夜の生々しい記憶が蘇ってくる。ハッと我に返ると、痛ましいものを見るような渉青の視線とぶつかった。
「これは僕のせいだ。渉青の言うことを聞かなかったから」
「いや、俺のせいだ。あんなに近づくまで気が付かなかった。あれはおまえにはまだ少し早かった。だけどあの程度ならそのうち簡単に祓えるようになる。しかしな、あのお嬢さんがいつも相手にしているような悪霊は俺たちには多分一生祓えない。その手伝いをするってことはそれだけ危険が伴うってことだ」
危険が今までより大きくなるなんてことはもちろん分かっている。それでも…。
柳之介は玄米茶の入った湯呑みをじっと見つめた。
「僕、気づいたんだ」
「何だ?」
どこか心あらずの柳之介を渉青は首を傾げて促した。柳之介は震える手で湯呑みを持つと、一息に飲み干し、言った。
「僕、幽霊よりもお注射の方が怖いです」
こうして、柳之介と渉青は美人巫女朝日の幽霊退治の手伝いをすることになった。
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