第8話

「きつ…よ…?」


 聞き慣れない名字に疑問系になる柳之介りゅうのすけに、


朝日あさひでいい」


 と淡々とのたまうその美人は、すぐさま渉青しょうせいに視線を戻した。女の幽霊との掴みあいで血まみれになり、身なりも乱れた渉青は、いまだ緊張感の抜けない目つきの鋭さも相まって、立派な悪霊風情だった。朝日は渉青に護符を向けた。


「ま、待ってください」


 柳之介は渉青を庇うように二人の間に割って入った。


「渉青は、この幽霊は、良い幽霊なんです」

「良い幽霊…?」


 柳之介は自分でもどうしてそんなことを言い切ったのか分からなかった。良い幽霊なんかいないという結論に数分前にたどり着きかけていたことを忘れたわけではなかった。しかし、これは理論ではなく感情論なのだ。一緒にいる時間こそまだ短いが、それでも渉青は絶対に悪霊ではない。そう思いたいという感情論。


 おそらく朝日は悪霊退治の専門家か何かなのだろう。巫女姿に護符なんて典型中の典型である。さっきの手際の良さからみても、柳之介のように昨日今日幽霊退治を始めた人間ではない。


(「でも、彼女は人間だ」)


 柳之介は幽霊に触れることはできない。しかし、人間に触れることは当然できる。彼女が渉青を祓う前に妨害するくらいのことは自分にもできるはずだ。柳之介は少しずつ朝日ににじり寄った。朝日は距離を詰めてきた柳之介の足元をチラリ見た。柳之介はギクリとした。作戦はバレている…。


 朝日は護符を持つ手をゆっくり降ろし、踵を返した。ウェーブがかったポニーテールがふわりと揺れる


「良い幽霊なら祓う必要はない」

「?!」

「お嬢さん、ちょっと待ってくれ」


 キョトンとする柳之介の横で渉青が息を切らしながら朝日を呼び止めた。


「あんた、国家認定の祓い屋さんだな」

「その存在は国家機密。なのに随分詳しいですね。正確には慰霊官という役名ですが」


 振り返った朝日の表情にはいっこうに変化が見られない。肝が座っているというか、なんというか、見た目の美しさに惑わされると痛い目に合いそうだ。


 渉青は苛立たしげに吠えた。


「ならばなぜ俺を祓わない! 全部消さなきゃだめだろう。あんたたちがやらないから悪霊による被害が無くならないんだっ!」


 朝日の瞳に動揺が走ったのを柳之介は見逃さなかった。そして、その動揺は一瞬にして不機嫌に変わり朝日の眉をひそめさせた。


「単純に人手不足。だから、優先度の高い霊から消していく。本当は今だって別の霊を消しに行く途中だったの。さっきの霊は今のところそれほど有害じゃなかったはず。情報が上がってきてないもの。あなたたちが何か刺激を与えたんじゃないの」


 腕を組み明らかに不満をさらけ出す朝日は急に子どもじみて見えた。渉青はその態度の変わりように少しうろたえた。


「いや、でも―」

「でもじゃない! 私、急いでるの。これ以上邪魔するなら本当に祓うわよ。あなたも、そこのハムスターの霊もいつでも祓えるんだから」


 朝日は渉青を睨みつけた後、自身の首の後ろを指で軽く叩き柳之介に視線を送った。朝日の勢いに押され、言葉を失った柳之介たちに、あぁそれと、と朝日は付け加えた。


「見つけた霊を片っ端から祓う慰霊官もいるから気をつけて」


 スタスタと立ち去る巫女を見送りながら、柳之介はトレーナーのフードに手を伸ばした。ほんのり温かな金色の光が柳之介の掌に転がっている。


「これ、ヤマネじゃなくてハムスターだったんだな」

「ハム…酢…? なんだって?」


 渉青はハムスターを見たことがなかった。

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