第7話

柳之介りゅうのすけから離れろ、くそアマっ!!」


 その瞬間、女の悲鳴が夜空に響き渡り、柳之介の首を締め付ける力は消え去った。


 柳之介はその場に倒れ咳き込んだ。女の悲鳴は止まない。嫌がる女の髪を鷲掴み、蔑みの視線を落とす渉青しょうせいの横顔に柳之介は思わずぞっとした。初めて幽霊を祓った時と同じ、あの冷ややかな激しい怒り。渉青は霊という霊を心底憎んでいる。それほどまでの憎しみは一体どこから湧いてくるのだろう。他の幽霊なんかより渉青の方がよっぽど怖ろしい。


「柳之介、大丈夫か」


 渉青は女から視線をそらすことなく柳之介の身を案じた。


「…うん」

「そうか。良かった」


 渉青の表情が少し和らいだ。


「俺がこいつを抑えておく。その間に祓ってくれ」

「…分かった!」


 柳之介はリュックの中から瓶を取り出した。この中に塩が入っている。蓋を開けようとしたが手の中で瓶が暴れた。渉青が呆れと笑い半々で柳之介を見やった。


「何してるんだ。早く」

「手汗が」


 柳之介は着ていたトレーナーで手汗を拭った。蓋がようやく開く。塩を掌に取り出そうとしたところで、柳之介の体を生温い感触が通った。


「うわっ」


 子どもの幽霊が柳之介の体を通り過ぎ、母親のもとへひたひたと歩いていた。柳之介は驚いた拍子に塩の瓶を落とした。ガラスが割れ、塩は飛び散り、子どもの幽霊に降りかかる。塩は火の粉のように幼子の肌を焼き、


「マ…マ…」


 と最期の言葉を残して、小さな幽霊は跡形もなく消え去った。


 その瞬間、女の幽霊は狂ったように叫び声をあげた。もはや何を言っているのか判別できない。言葉にならない悲鳴が柳之介の心を抉る。髪が千切れるのも気にせず女は渉青の手から抜け出した。渉青はもう一度手を伸ばす。女は指に噛みつき唸り声をあげた。渉青は一瞬顔を歪めたが、女の口の中に素早く拳を突っ込んだ。くぐもった声が苦しそうに響く。涙目の女の口から垂れてきた血は一体どちらの血だろうか。


 はっと我に返った柳之介はガラスの破片が指を切るのも構わずこぼれた塩をかき集めた。


 早く渉青を助けなければ。


 そう思った次の瞬間には別の感情が湧き上がった。


 助けていいんだよな…?


 最初に襲ってきたのは女の方だ。渉青は自分を助けてくれた。だから渉青を助けるのは当然だ。


 それで…良いんだよな…?


 渉青はきっと良い幽霊だ。だから助けてもいい。でも、いい幽霊ってなんだ。渉青自身が言っていたじゃないか。どんな幽霊もこの世に存在してはいけないと。


「柳之介、急げ。俺じゃ祓えない!」


 渉青の腕には女の鋭い爪が食い込んでいた。どちらも動くに動けない状況だ。祓うなら今、今しかない。でも誰を? どっちを? どっちとも?


 その時だった。


 突然、どこからともなく真っ白な護符が数枚飛んできて、女の幽霊に貼り付いた。


ね」


 玲瓏な声とともに白い護符が燐光を放つ。瞬間、幾何学的な文様が浮かび上がり、女の幽霊は悲鳴をあげる間もなく跡形もなく消え去った。


「次はあなたの番ね」


 柳之介と渉青は声のしたほうを振り返った。人差し指と中指の間に護符を挟み、渉青をまっすぐ見つめる一人の巫女がいる。柳之介は思わず叫んだ。


「図書室の美人!」


 巫女は真顔のまま柳之介に視線を移した。


「私の名前は吉芳きつよし朝日あさひ。美人なのは分かってる」

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