第6話
この頃は日が沈むのも随分遅くなってきた。空は紫色と橙色がせめぎあい、二分されている。綿を引きちぎったような雲が風に吹かれてたなびいていた。
「
大学からの帰り道、柳之介の隣にふっとその男は現れた。鉄紺色の羽織を纏い、着物を着こなす姿はお洒落なぞに興味のない柳之介の目から見ても様になっている。その男が生前、粋な男であったことが容易に察せられた。
「
柳之介は隣の男の顔を見ず、前を向いたまま小声で話しかけた。渉青は幽霊だ。見える人には見えるが普通の人には見えないものらしい。つまり、渉青との会話は端から見れば独り言で、ということはつまり、柳之介は変人ということになってしまう。そう思われないために外ではいつもこうして素知らぬ感じで対応していた。
しかし、渉青はそんなことなど気にもせずいつもの感じで話しかけてくる。
「なぁんかやっぱりいつもと違うな。顔がふぬけてる。なんだぁ、女か…女か?!」
柳之介の頭に図書室の美人とひまわりの種がフラッシュバックした。
「な、何もない! それより幽霊は?!」
「今日は、見つからなかった」
本日の幽霊退治は閉店休業。柳之介は思わず出そうになったガッツポーズを強い意志で押しとどめた。前方から高校生のカップルが手をつないで歩いてきていたからだ。未来ある若者たちの睦まじいひとときに変人の苦い記憶を刷り込みたくはない。
渉青はくくっと笑い声を漏らした。
「やっぱり柳之介は面白い」
「何が」
「全部顔に出てるんだよ。あとな、今日は見つからなかったけど予備があるから。行くぞ」
そう言って、渉青は袂から使い込まれた手帳を取り出し、柳之介に向かってひらひらさせた。その瞬間、柳之介は周りの目も気にせず膝から崩れ落ちた。近くでゴミ袋を突いていたカラスが驚いて飛び去った。
「上げてから落とすのやめろよー!」
柳之介は今日の分の理性を失った。
◇◇◇
その日の幽霊退治はいつもより手こずった。頭から血を流す酔っぱらいのおじさんの幽霊だった。酔った勢いでどこかにぶつけたのだろう。本人も気が付かないうちに亡くなったに違いなかった。やたらとニコニコした幽霊で、これなら怖くもないし楽勝だと思っていたが、それは大間違いだった。塩を投げても投げても酔拳のようにかわされ、被害はないものの無駄に疲れる幽霊退治となった。
しかし、一つだけ良いことがあった。今まで直接触れるか投げつけるかしかなかった祓いの塩を、柳之介はコントロールする術を覚えた。投げた塩の軌道修正をすることができるようになったのだ。思いのままというには程遠いが、柳之介の幽霊退治の能力は日に日に向上していた。
なんとか退治し終え、2人が家路につく頃にはすっかり夜の帳が降りていた。田舎ほどではないが都会の夜空にも星は瞬いていた。昔聞いた歌にもそんな歌詞があったなと柳之介はやけにしんみりした。
喧騒から離れた場所を歩いていたので周りに人はいなかった。柳之介には渉青にずっと聞きたいことがあった。
「そういえば、なんで自分で退治しないんだ? 僕にやらせるより自分でやったほうが早いでしょ」
隣を歩く渉青は驚いたように目を瞬かせた。
「俺、死んでるからなぁ。自力ではもう退治できんよ。幽霊が幽霊を祓うなんて聞いたことないだろ」
「そりゃ聞いたことないよ。幽霊と話すこと自体、渉青が初めてだし」
渉青は、それもそうかと屈託なく笑った。
「渉青はさ、なんでこの世をさまよってるの?」
この世に強い未練や恨みがあるものが悪霊となり、いつまでもこの世に居座るのだと渉青が教えてくれた。そして、この世からそういう者たちを拒絶しなければならないとも。だけど、それは渉青自身にも当てはまるのではないだろうか。100年という歳月は生半可な年月ではない。
渉青はこともなげに答えた。
「そりゃ特大の未練があるからだ。この世の悪霊をすべて祓うまでは逝けないね。あっ、間違っても俺を祓おうなんて考えるなよ」
「渉青が良い幽霊であり続けるならな」
「良い幽霊ってのはさっさとあの世に逝くもんだ」
そんな風に返されたら聞かないわけにはいかない。
「…渉青ってやっぱり悪霊なのか?」
渉青は柳之介を面白そうに見下ろした。あたりはすっかり暗闇に包まれている。心許ない電灯の明かりが、かえって夜の暗さを仄めかしていた。柳之介はどぎまぎした。幽霊の中でも人に害を与えるものを悪霊と呼ぶ。渉青によれば良い霊などおらず、どんな幽霊もこの世に残り続ける限り全て悪霊に変わり果てるらしい。だから渉青はどんな霊も見逃さない。
渉青は何か言おうと口を開きかけたが、ふいに前方へ視線を寄越した。その横顔に緊張の色が漂っている。柳之介も何事かと視線の先を追った。
「柳之介。遠回りして帰るぞ」
「なんで」
「いいから。こっちだ」
柳之介を通り抜け方向転換する渉青を、柳之介は無視ししてまっすぐ進み続けた。渉青の苛立つ声が響く。
「柳之介。そっちはだめだ」
「だって、いるじゃないか」
柳之介は前方を指差した。さっき渉青が見ていた方向だ。ぱっと見には気付かなかったが何かあると疑って見れば、その存在に気付くのは容易だった。電柱に隠れてこちらを覗く子どもの幽霊。4,5歳くらいだろうか。輪郭は朧げで、その虚ろな表情は自分がこの世にいるのかいないのか、それさえももはや分からなくなっているのかもしれない。
「全ての悪霊を祓い尽くすんだろ。明日の分までやっちゃおうよ」
「それは囮だっ!!」
渉青が駆け出すのと柳之介の首がきゅっと締まるのが同時だった。
(「か…みの…け…?」)
柳之介の首を締めていたのは髪の毛だった。取ろうとしても触れられない。自分の首を掻きむしりもがき苦しむ柳之介の顔に長い髪が被さった。
「パパ、みーつけた」
見上げた先に赤い口紅がニヤリと笑っていた。きっときれいな人だったのだろう。生きていたときは。
柳之介の意識は朦朧とし始めた。
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