第5話

 木々の緑が弾み、爽やかな風が心地よい5月下旬のとある日。


 柳之介りゅうのすけは大学の図書館で本を読んでいた。この日は1コマ目と3コマ目に講義があり、その間暇だったのである。大学に入って、クラスの面々ともそこそこ仲は良くなっていたが、柳之介は一人でいることが多かったし、好きだった。


 一人になりたい柳之介がよく行くところといえば大概この図書館だった。地方の町立図書館とは比較にならない蔵書数。そのうえ、最近リニューアルされたため、広くて、綺麗で、当然静かで、すこぶる居心地がいい。もういっそ図書館に住みたいくらいだと常々そう思っている。


 そんな至福の時間を過ごしていた柳之介の耳に、突然剣呑な会話が飛び込んできた。


「「血まみれ教授」の話、知ってる?」

「あぁ…実験に失敗した教授の幽霊ってやつだろ」

「そうそう2号館に出るってやつ!」

「何、お前、信じてんの?」

「それがさ! この前オレ見たんだよ。ほら彼女2号館じゃん? 一緒に帰ろうと思って迎えにいったらさ…白衣の人が廊下をふらふら歩いてて、後ろ姿だったんだけど、下見たら血痕が続いててさ…えって思って瞬きしたら、白衣の人も血痕も無くなってたんだよ。彼女にその話したらさ、青い顔してそれ「血まみれ教授」の幽霊だっ…て!!」

「しーっ」


 話を聞いていた方の茶髪の男が慌てて人差し指を突き立てた。今や図書館中の人間が彼らの会話に聞き耳を立てている。幽霊を見たという坊主頭の男は茶髪くんに謝っていた。しかし、思い出すだけでも恐ろしいのだろう。大きな体が窮屈そうに縮こまっている。茶髪くんは優しく微笑むと、やりかけのレポートに取り掛かるため軽く伸びをして、言った。


「見間違いだよ、きっと。だって今まで2号館で実験に失敗して死んだ教授なんていないらしいぞ。サークルの先輩が調べたことあるって。誰かがお前を驚かそうと化けてたんじゃないか」

「まじか! なんだよ、ふざけんなよ〜」


 坊主頭は言葉とは裏腹に嬉しそうにしていた。さぞほっとしたのだろう。顔はすっかり笑顔になっている。


 柳之介は誰にも聞こえないように小声で師匠の名を口にした。


渉青しょうせい


 しかし、返事は返ってこなかった。こういうことはよくある。幽霊というから四六時中憑きまとわれるのかと思いきや、渉青はそばにいないことが結構多かった。何をしているか聞いたことはないが、おそらく幽霊の居場所を探しているのだろう。こうして見つけてきた幽霊の居場所を柳之介に伝えては、一緒に退治しに行くのが日課のようになっていた。


(「今日は見つからないと良いけどな。10日連続はさすがにきつい…」)


 柳之介は図書館の時計を見た。3コマ目にはまだ早い。


(「講義室で寝とこう。そしたら遅れることもないし」)


 読んでいた本を書架に戻し、あくびを噛み殺しながら出口に向かう。突然、柳之介は前方にとんでもない美人のオーラを感じて、思わず視線を地面に落とした。


 オーラというか直感のようなものだ。前方から歩いてくる女性はとんでもなく美人だという直感。顔は見ていないので本当に美人かどうかは分からないが、恥ずかしくて顔を上げられないほどの美人がそこにいるという謎の確固たる自信。


 柳之介は自分の足元から目を離さず、おそらく美人であるその人の足元を視界の端に入れながらそそくさと横を通り過ぎだ。


「きみ」


 玲瓏な声が柳之介を呼び止めた。おそらくそれは柳之介に向けられた言葉だった。


「ねぇ、きみ」


 2回目の呼び掛けで柳之介はようやく振り返った。目の前にいたのはとんでもない美人。柳之介の直感は正しかった。陶器のような白い肌。大きくくりっとした瞳はどちらかといえばたれ目で優しげに見える。あまり主張しない鼻と唇がかえって感じが良い。黒曜石のような艶髪は軽くウェーブ掛かっていてポニーテールが大人っぽく見える。そして、とんでもなく美人。


 その美しさに圧倒された柳之介が、返事もせずに口を開けたまま固まっていると、その美人は柳之介が着ていたフードの中におもむろに指を差し入れた。


「きみ、フードの中にひまわりの種入ってるよ」


 美人の人差し指と中指の間にはひまわりの種が挟まっていた。そして、淡々と真顔で柳之介にひまわりの種を渡した。柳之介は掌の上のひまわりの種を少しの間見つめていたが、我に返った時には時すでに遅し。美人は広い図書館の遥か彼方にいて、それでもやっぱりとんでもなく美人だった。

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