第4話

 どこからともなく現れた男の笑顔は、今日初めて会ったというのに、しかも幽霊だというのに、柳之介りゅうのすけをとてつもなく安心させた。


渉青しょうせい!」


 名前を呼ばれた男は照れたように片眉を上げる。


「ヤマネは後回しだな」


 渉青は女の幽霊に向き直った。その瞬間、明らかに周りの空気が変わった。渉青の鋭い視線に、女の幽霊は縮こまり、ガタガタと震えだした。


「思ったよりも戻ってくるのが早かったな。雑魚のくせに」


 吐き捨てるように言った渉青に、


「こ、ここは私の、私の場所…!」


 吃りながら反論する女の声はしゃがれていて弱々しい。しかし、逃げるつもりはないようだった。


「この子は、う、受け入れて、くれた…! 私、のもの…! ひっ…!」


 震えながら柳之介に手を伸ばす女の幽霊の前に渉青は立ち塞がった。渉青がそのときどんな顔をしていたのか、柳之介の位置からは見えない。しかし、青白く光る渉青の輪郭が、一瞬怒気をはらんで歪んだような気がした。


 実際、渉青は怒っていた。その怒りは柳之介の想像を遥かに超えるものだったが、渉青はそれを感じさせないよう落ち着き払ってみせていた。


「…柳之介、塩を持ってこい」

「塩……あんたが消えた後全部撒いちゃった」

「全部?」


 驚いたように振り返った渉青は可笑しそうに笑い声をあげた。


「どれだけ俺のこと怖かったんだ」


 ピンと張り詰めていた空気が少し和らぐ。柳之介の足にようやく力が入った。


「あの塩でも大丈夫か?」


 柳之介は渉青の横に並び立ち、女の目の前でぐすぐずになっている塩の塊を指差した。立ち上がっても頭一つ分背の低い柳之介を、渉青は面白そうに見下ろした。


「行けるか?」

「行くしかないだろ。幽霊を祓うのに塩がいるんじゃないのか?」


 渉青はふっと笑うと柳之介の耳元で囁いた。


「塩を掴んだらそのまま女を殴れ」

「おお…」


「女を殴れ」という言葉の強さに柳之介は一瞬たじろいだ。男女平等の時代とはいうものの、女子どもには手を上げるなと育てられてきた柳之介には少々受け入れがたい言葉だ。柳之介のもの言いたげな視線に渉青は分かったようにうなずき返した。


「あれは悪霊。遠慮は不要だ」


 その時、女のすすり泣きが二人の会話に割って入ってきた。


「リュウ…ノスケ…? 助けてくれる…よね…?」


 渉青が汚らわしいものでも見るように冷たい視線を落とした。ピアノ線でも張ったかのように空気が張り詰め、柳之介はまたしても息苦しくなった。


「弟子の名前を馴れ馴れしく呼ぶな」

「リュウノスケ、お願い…そばに、いるだけ、だから…」


 渉青は女の幽霊から少しも視線を逸らさないまま静かに、しかし、激しく怒りを吐き出した。


「塩は結界だ。世界から異物を拒絶するものだ。お前たち悪霊がいるべきところはここじゃない。それを分からせるためのものだ」

「嫌…私、何も、悪くない…」


 柳之介を見つめすすり泣く女を前に渉青はけんもほろろだ。


「存在自体が悪。この世界にお前たちを受け入れるつもりは毛頭ない」

「リュウノス―」

「柳之介、今だ! 祓い尽くせ!」


 渉青の声に柳之介は弾かれたように飛び出した。塩の塊を両手で掴みとり、そのまま拳を振り下ろす。掌からこぼれた塩がはらはらと宙を舞い不思議な朱い光を帯びて煌めいた。何かを殴る感触は無く、生温さを感じたのも束の間、血の涙を流す女の幽霊は一瞬怯えたような表情を浮かべたが、すぐに断末魔をあげ、そのまますっかり消え去った。


 これが瀬戸柳之介、初めての幽霊退治となった。そしてこれ以降、土佐渉青の弟子として幽霊退治に邁進する日々が始まるのだった。

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