第3話
ピシッと木が裂けるような音がして、
(「そもそも今まで見たことなかったし」)
今日初めて見たからといってこれから未来永劫見るものでもないだろう。柳之介は都合よくそう思い込むことにした。すると、不思議なもので、隅っこで毛布にくるまれ縮こまっている自分が急に馬鹿らしく思えてきた。
(「やっぱり風呂に入って布団で寝よう」)
柳之介は風呂場へ行こうと立ち上がった。立ち上がりざま、幽霊の男がいた場所に視線がいくと、一瞬思考が停止した。
床には柳之介が撒いた塩が残っている。それは何の問題もないのだが、その塩が湿り気を帯び、ぐずぐずの塊になって床に転がっていた。
なんで濡れてる?
不意に浮かんだ疑問に柳之介の心拍数は跳ね上がった。寝ている間に何かが起きている―
喉が潰れたような女のうめき声が聞こえたのはその時だった。
「…しい…っ…苦しい…」
「!!」
柳之介の脚を生温い感触がなぞった。非力な、助けを求めるような、弱々しいその感触は、柳之介に嫌悪の感情を湧き上がらせた。触れてはいけないものに触れたような、自分が穢されてしまったような、理性ではどうにもならない激しい嫌悪感。本能から飛び跳ねるように避けたところで、柳之介の背中は部屋の消灯スイッチを押していた。
時刻は深夜を過ぎていた。カーテンまできっちり閉められたこの部屋には外からの明かりが入り込む余地も無い。柳之介はうめき声の響く暗闇に取り残された。声は何重にも重なって柳之介の精神を追い詰めた。そして、暗闇は今まで見えていなかったものをあぶり出した。
青白く光る女が床に這いつくばっていた。髪は乱れ、大きく見開かれた目からは血が滴っている。顔も手も火ぶくれが潰れたように爛れていて、酷たらしい有様だった。女はまばたき一つせず柳之介に向かって這い寄ってきた。
「苦しい…助けて…なんで私が…」
その姿はあまりにも哀れだった。柳之介もさすがに憐憫の情をその胸に抱かずにはいられなかった。一瞬でも穢らわしいと思ってしまった自分を恥じた。相手が呻くばかりで何か攻撃してくる素振りがなかったという点も柳之介の心に余裕を与えた。そして、心の余裕は柳之介に想像力というものを働かせた。
もしかしたら、この女の人は不慮の事故で亡くなった人なのかもしれない。皮膚の爛れは火傷の跡だろうか。ということは、昔このあたりで火事があり、彼女はその犠牲者なのかもしれない。それにしては軽症すぎるだろうか。ならば皮膚病だろうか。きれいな顔に跡が残るのを悔やんでの自殺とか…?
柳之介の声は震えていた。
「辛かったですね…どうか心を鎮めてください」
その瞬間、女は嬉しそうに柳之介を見上げた。口角を上げ、目を細めている。
「助けてくれる…?」
女の笑顔は不気味だった。執拗に上げられた口角に媚を売るような眉尻、それでいて瞳の奥は少しも笑っていないのだ。女の猫なで声が柳之介の耳元で囁いた。
「あなたはずっとそばにいてくれる?」
柳之介はその場で腰を抜かした。途切れるような短い息遣いで、上手く呼吸ができない。背中は冷や汗でびしゃびしゃに濡れている。脚の震えが止まらない。
女の嬌声が四方から響いて、柳之介を取り巻いた。心臓が弾け飛びそうなほどドクドクと打ちつけられている。「死」という文字が頭を掠めたその時―
「柳之介、ヤマネの幽霊捕まえてきたぞ」
どこか聞き覚えのある男の声が、今の状況にはあまりにも場違いな飄々さで、女の笑い声に割り込んできた。
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