浮気者には制裁を

 その日、思えばユウリは朝からおかしかった。

 朝食も、普段ならぼんやりしているのに今日に限ってしっかり食べていたし、いつもより早めに出ていくと言っていたので玄関まで見送ってあげたのだが、そのときもやけにそわそわしているように見えた。


「じゃあ行ってくるね」


 そう言って家を出ていったが、わたしはなんとなく嫌な予感を覚えてならなかった。

 そしてそれは的中したのだ。

 夕方帰ってきたユウリから、他の女の匂いがぷんぷんしていたからである。とにかく不快なことこの上ない香りだった。


 でも、これだけではただ単にお酒を飲んできただけかもしれないと思って我慢してみた。

 しかし、夕食を食べているときもどこか上の空だし、食器を片付けようとしてうっかり割ってしまったり(これは本当に珍しい)、テレビを観ているときにもぼうっとしていて画面を見ていなかったりする。わたしが声をかけるとハッとした顔をするので大丈夫かと思ったら、やっぱりまたぼんやりしてしまう。

 じっと見つめていたら、視線に気付いたらしい悠李はわたしの頭を撫でてきた。


「どうしたんだ? モモ。寂しいのか?」


 いやいや、違うよ。そんなことじゃないんだよ。そう思ったものの、口に出すわけにはいかないので黙っていた。

 するとユウリはわたしを抱き上げてきて、「よしよし」と言いながらゆらゆら揺すってきた。何それ。犬猫にするみたいな扱いだな。

 ちょっとムッとしたが、抱き締められたまま頭を撫でられているうちに機嫌が良くなった。だって気持ちいいもん。


「……モモは可愛いなぁ」


 しみじみと言われた。

 うん、知ってる。

 そのままベッドに連れていかれて、一緒に寝ることになった。わたしはユウリの腕の中に閉じ込められた状態で目を閉じた。


◆◆◆


 ユウリとの出会いは、2年前の春にさかのぼる。

 その日は雨が降っていて肌寒かった。わたしは寒さに震えつつ、ふらふらと近所を歩いていた。

 すると突然、横合いから飛び出してきた車にねられてしまったのだ。しかも、ちょうど車通りの少ない時間帯だったので、運悪く目撃者はいなかった。


 ああ、わたし死ぬんだ……。

 薄れゆく意識の中で、そんなことを思った。わたしは痛みを感じる間もなく息絶えた──はずだったのだが。

 次に気が付いたときには、見知らぬ場所にいた。薬のようなツンとする臭いの漂う部屋である。病院だろうかと思っていると、白衣を着た男の人が入ってきた。


「目を覚ましたようですよ」


 わたしの姿を目にするなり、彼はそう言った。その言葉を受けて、白衣の男性の後ろに立っていた人が近づいてくる。

 ──それがユウリだった。


「あぁ……!良かった……!」


 心底安堵あんどしたという様子で呟くユウリを見て、彼がわたしを助けてくれたのだということがわかった。


 それからわたしはユウリの家に連れて行かれて、そこで暮らすことになった。わたしには、家なんてものはなかったし、帰る場所もなかった。だからとても嬉しかった。

 ユウリは優しかった。いつもわたしのことを一番に考えてくれて、何かあるたびに甘やかしてくれた。

 わたしはそんな彼のことが大好きになった。そしてずっと一緒にいたいと思うようになったのだ。


◆◆◆


 翌朝、わたしが起きたときにはもうユウリの姿はなかった。

 たぶんバイトに行ったのだろう。ユウリがいないのは残念だが仕方がない。わたしは欠伸をしながらリビングに向かった。


「あれ?モモじゃん」


 そこにいたのはアンナだった。ユウリの姉である彼女は大学院生で、わたしもよく知っている。ちなみにユウリは大学3年生だ。

 わたしが近寄っていくと、アンナはにっこりと笑った。


「昨日はユウリがごめんね~」


 その言葉に首を傾げる。どうして謝られるのだろうか。

 疑問符を浮かべていると、アンナは苦笑いをした。


「ほら、昨日のユウリ、明らかに様子が変だったでしょ?」


 ……ああ、確かにそうかも。

 どこかふわふわしているというか、心ここにあらずといった感じだった。


「こんな可愛い子がいるんだから、ほどほどにしなよとは言ったんだけどねぇ……」


 言いつつ、アンナの手が伸びてくる。その手はわたしの背を優しく撫でてくれた。気持ちいい……。アンナもとても優しい人だなぁ……。


「……まあ、これからもよろしくしてやってちょうだいな」


 アンナの言葉にわたしは大きく返事をした。

 任せておいて。わたしはユウリのことが大好きだもん。


◆◆◆


 昨日のことはきっと何か理由があるのだろう。そう思いたかったのに、わたしはまた浮気の証拠を掴んでしまった。


 それは土曜日のことだった。ユウリは朝から出かけていたのだが、お昼すぎに帰ってきた。わたしは玄関まで出迎えに行ったのだけど、ユウリからはまた女の匂いがぷんぷんしていた。

 思わず後ずさりをしてしまったわたしの頭を撫でてから、ユウリは「ただいま」と言った。しかし、それ以上は何も言わなかった。


 え?何これ?どういうこと?

 わたしは混乱した。

 ユウリはその後すぐに部屋に戻ろうとしたので、慌てて追いかけようとして転んだ。痛い……。でも、今はそんなこと気にしている場合ではない。

 だけど、わたしは起き上がったところで、ある物を見つけてしまった。


「……?」


 床に落ちていたのは長い毛だった。ユウリもわたしも短いから、アンナのものかと思ったけれど、どうも違うような気がした。だってアンナは髪を染めていないから、こんな薄い茶色じゃない。

 どう考えても他の女のだよね、これは。

 わたしは悲しくなったけど、それ以上に腹立たしくてならなかった。


 何なの!? ユウリはわたしのことが好きなんじゃないの!? それなのに他の女と遊んでいるなんてひどい!!

 怒りのあまり身体がわなわな震える。

 その時、部屋から出てきたユウリに向かって、わたしは大声をあげた。


──この浮気者ーっ!!


 すると、ユウリはビクッと肩を震わせた。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向いた顔には、動揺の色がありありと浮かんでいた。


「……どうしたんだい?モモ……」


 ユウリの声は少し掠れていて聞き取りづらかった。

 わたしはカッとなって怒鳴った。


──しらばっくれても無駄なんだから!


 後ずさるユウリを追いかけると、彼は焦っているように見えた。


「落ち着いてくれ、モモ! あぁ、そんな獲物は……!」


 やだ! 絶対に許さないもん!

 わたしはユウリに襲いかかった──。



◇◇◇



「いたい、いたいってば……!モモ、やめて……」


──フシャーーッ!!


 僕は今、モモに襲われている。

 いや、比喩じゃなくて本当に襲われてるんだよ。モモは、僕の手に噛みついている。


「モモ、モモちゃん、モモさん?お願いだからやめてください。いたいです。本気でいたいんです。ていうか、爪が刺さる!」


 必死になって訴えていると、姉が部屋から出てきた。


「ちょっとユウリ、あんたうるさいよ。近所迷惑だから静かにしなさい!」


 僕が何か言う前に、姉はモモをひょいっと抱き上げた。


「ほら、こっちおいで。よしよし、ユウリは酷いよね~。こんな可愛いモモがいるのに、猫カフェに行くなんてさ」


「うっ……!それは……」


 姉の指摘に言葉が詰まる。

 そうなのだ。実は今日、猫好きの友人に誘われたので、猫カフェに行ってきたのだ。

 うちにはモモがいるからと断ったのだが、いろいろな種類の猫たちとふれあえると聞いて、つい心が動いてしまった。


 だって、猫可愛いんだもの……!

 一度きりにするつもりが、結局2回行ってしまった。

 猫は可愛かった。すごく癒された。長毛種の猫のサラサラとした感触はとても気持ち良かった。

 モモは短毛種なので、モフモフしていて気持ちいい。だけど、たまには毛色の違う猫にも触れたいと思うのが人情というものだろう。

 でも、モモをないがしろにしたわけではない。断じてそういうわけでは……。


「……モモに悪いとは思ってたよ」


 正直に告げると、姉は溜息をついた。


「わかればいいのよ。次から気を付ければ」


「はい……」


 素直に反省すると、姉に床に降ろしてもらったモモは、ようやく落ち着いたのか、大人しくなってくれた。

 ツンとそっぽを向いてしまったモモの頭を撫でてやると、尻尾を揺らして応えてくれた。


「……モモ、ごめんね」


 僕が謝ると、モモは尻尾を腕に巻き付けてきて、小さく鳴いた。


──もうしないでね。


 そんなふうに言われた気がした。うん、もう絶対浮気はしない。

 僕はモモを抱き締めながら心に誓ったのだった───。

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