星空タバコ

 私は、タバコを吸う人が嫌いだ。

 ……いや、「今は」嫌いだという言い方が正しいだろう。


 私が幼稚園児くらいの頃は、むしろタバコを吸う人が好きだったのだ。それは、父が喫煙者だったからという理由が大きい。

 父は夜に、よく家のベランダでタバコを吸っていた。吐いた煙が、星空へ溶けていくのを見るのが好きで、私はいつも父の隣に座って眺めていた。


『おとうさん、ふーってやって!』


 そう言ってせがむと、父は私に向けて微笑んでから、ゆっくりと息を吐き出す。そしてその煙は夜風にさらわれて消えていった。

 その度に私は、嬉しそうにはしゃいでいた気がする。

 幼い私は、父が吐く煙がそのまま星になっているのではないかとまで思ったものだ。

 ……だがそんな幸せな時間は、長く続かなかった。


 父は、私が小学校を卒業してすぐの頃、病気で亡くなってしまったのだ。原因までは教えてもらえなかったが、おそらくタバコだろうと私は思っている。

 授業で、タバコは身体に悪いものだということを習ったばかりだったため、その時のショックはとても大きかった。

 それからというもの、私はタバコに対して嫌悪感を抱くようになったのだ。


◆◆◆


 そして今、大人になった私は職場のオフィスでキーボードを叩いているのだが……。


(……またか)


 隣にいた同僚が、ポケットに何かを入れて席を離れたことに気が付いた。彼女は喫煙所へ向かったようだ。


 私は、どうしてこんな仕事中にまでタバコを吸いに行くのか不思議でしょうがない。正直なところ、タバコを吸わない人の方が圧倒的に多いこの社会において、タバコというのは害悪以外の何物でもないと思う。

 実際、肺がんの原因になったりもすると聞いたことがある。

 それなのになぜ皆は、あんなものを平然と口にできるのだろうか? 私には全く理解できない。


「はぁ……」


 思わず溜息が出た。父の命を奪ったタバコに対する憎しみは、今も消えることはない。

 でも、彼女はあくまでも同僚であって、私とは無関係の他人だ。他人の趣味嗜好にまで文句を言うつもりはない。だから私は、なるべく気にしないようにしている。


 私は彼女が戻って来る前に、今やっている作業を終わらせるべく、キーボードを叩き続けた。


◆◆◆


 他人がタバコを吸うのは百歩譲って許せるとしても、それが家族になる人なら話は別である。

 だから私は、付き合うならタバコを吸わない人と決めているのだ。


 そして先日、ついに理想の男性と出会うことができた。彼は私の二つ年下で、とても優しくて穏やかな性格をしている人だった。

 彼との出会いは合コンだった。友人に誘われた飲み会で知り合ったのだ。最初はあまり乗り気ではなかったけれど、実際に会ってみるとすごく好感を持てたので参加して良かったと思っている。


 もちろん、彼はタバコを吸わない人だった。私たちはすぐに意気投合した。お互いの好きな映画の話をしたり、共通の知人について話したりと話題が豊富だったので会話にも困らなかった。

 それに、彼が私と同じマンションに住んでいることも分かった。これは運命かもしれないと思ったほどだ。


 さらに驚いたことに、彼の方も同じことを思っていたらしい。そうして私たちはすぐに交際を始めた。

 恋人になってから知ったことなのだけど、実は私たちが住んでいた部屋は同じフロアにあったらしく、今まで一度も出くわさなかったことが不思議なくらいだと笑われた。


◆◆◆


 こうして付き合い始めてからしばらく経ったある日のこと。

 彼の部屋で一緒にテレビを見ていて、ふとしたことから、私がタバコ嫌いだということを打ち明けることになった。


「そうなんだね……。大丈夫、僕はタバコなんて吸わないよ」


 優しい口調でそう言ってくれた彼に、私は心の底から安心することができた。やはり自分の気持ちを理解してくれる人はありがたいものだと思う。

 それから何度かデートを重ねたが、彼がタバコを吸うことは一度もなかった。私はますます彼を好きになっていった。


◆◆◆


 そんなある日のことだった。彼と夕食を食べに行った帰り道、急に彼が苦しみ始めたのだ。

 胸を押さえながら倒れてしまった彼に、私は慌てて救急車を呼んだ。病院に着くまでの間、ずっと生きた心地がしなかった。


 幸いなことに大きな怪我はなく、ただの心臓発作だということが分かった時は本当にホッとした。

 しかし、医師からは念のため入院を勧められたため、私はしばらくの間、毎日のように病室に通った。


「迷惑をかけてしまってごめんね……」


 ベッドの上で横になっていた彼は申し訳なさそうに言った。


「謝らないでください。あなたは何も悪くないんですから……」


「……ありがとう。君みたいな素敵な女性が彼女になってくれて、僕はとても幸せだよ。これからもよろしくね」


 そう言う彼の表情は、どこか寂しそうだった。私は気になったが、何も聞けないまま退院の日を迎えた。


◆◆◆


 それからしばらくして、私はある違和感を覚えるようになった。

 それは、いつまで経っても彼がプロポーズをしてくれないということだった。


 世間では、結婚適齢期と言われる年齢に差し掛かっているというのに、私は未だに婚約指輪すらもらっていないのだ。

 何か理由があるのかと思い、それとなく聞いてみたのだが、彼は言葉を濁すばかりで答えてくれようとしない。

 このままの状態では不安だし、何より私自身、我慢の限界を迎えようとしていた。

 そこで私は、彼への不満を友人に打ち明けることにした。すると彼女はこう返してきた。


「その人……浮気してるんじゃない?」


 そんなまさか……とは思ったが、彼女の言葉を聞いて私はハッとなった。確かに最近の彼は、どこか様子がおかしい気がする。

 思い返してみると、帰りが遅くなる日が増えたり、休日に用事があると言って一人で出かけたりすることが増えていた。


 もしかすると、私は知らず知らずのうちに浮気されていたのではないだろうか?……いや、きっとそうだ。そうに違いない。

 私はいても立ってもいられず、次の休みの日にこっそり彼の後をつけることにした。


◆◆◆


 そして空もすっかり暗くなった頃。ようやく彼がアパートへ入って行く姿が見えた。私は急いで階段を駆け上がって行った。悪いとは思いつつも、渡されていた合鍵を使ってこっそり中へ入る。


 部屋の奥へ進むと、ベランダに立っている彼の後ろ姿を見つけた。何をしているのかと近づいてみると、彼はタバコを吸っていた。

 私は思わず息を飲む。彼の吐いた煙が、そのまま夜空へ溶けていくのを私は黙って見つめることしかできなかった。


「どうして……」


 ポツリと呟いた声が聞こえたのか、彼はビクリと肩を震わせて振り返った。


「どうしてなの!?どうしてタバコなんか吸うの!!」


 私が叫ぶように問いかけると、彼は悲しげな顔をして俯く。


「ごめん……。もう吸わないから、許して欲しい……」


 彼はすがるような目をしながら懇願してきた。私はそんな彼に戸惑ってしまう。

 こんな弱々しい姿を見せるのは初めてだったからだ。

 いつも明るく振る舞っている彼が、どうしてタバコを吸ったのか……。その理由を問いただしたかったが、今の彼を見たら責めることができなくなってしまった。


「お願い……。タバコは吸わないで……」


「うん、約束するよ……」


 それから数日後、彼がタバコを吸う姿を見ることはなくなった。


 これで彼の健康も守られるだろう。そう思っていたのだが、なんと彼の体調はみるみる悪化していったのだ。

 咳き込む回数が増え、顔色も青白くなっていく一方で、ついに入院することになった。医師が言うには、かなり危険な状態らしい。

 私にはどうしていいのか分からず、途方に暮れた。


◆◆◆


「あなたのお連れ様は、『星屑病ほしくずびょう』にかかっています」


 病状説明のために病院を訪れた時、医師は私にそう告げた。


 医師によると、『星屑病』というのは、その名の通り、肺の中に星屑が溜まってしまう病気らしい。

 肺の中で星屑が増殖し続け、やがて肺の機能を完全に停止させてしまうのだという。

 治療法は今のところ見つかっておらず、唯一、進行を止めることができるのは、『星空タバコ』という特殊なタバコだけだという話だ。


 医師が出したタバコの箱を見た瞬間、私は目の前が真っ白になった。

 彼が吸っていたのは、その『星空タバコ』だったのだ。

 一度倒れた時に星屑病だと診断された彼は、病気の治療のためにタバコを吸っていたのである。それを知らずに、私は彼を責め立ててしまった。

 私は罪悪感に押し潰されそうになった。私のしたことは、彼の命を削るようなことだったのだ。


 それからというもの、私は毎日のように彼の見舞いに行った。

 彼は相変わらず苦しそうだったが、それでも少しずつ良くなってきているようだった。


「ねぇ……タバコ吸ってるところ、見せて……?」


 私が頼むと、彼は困ったような表情を浮かべた。しばらく迷っていたが、観念した様子で床頭台しょうとうだいから星空タバコの箱を取り出した。

 そして病室の窓を開けて、箱から1本取り出すと口にくわえた。火をつけてゆっくりと吸い込み、吐き出した煙が夜空へと消えていく。


 星屑病の患者の肺に溜まった星屑は、タバコを通して星空へと帰っていくらしい。だから、こうして定期的に喫煙する必要があるとのことだ。

 これは後になって知ったことだが、彼は私がタバコ嫌いなのを知っていたから、私のいないところでタバコを吸っていたらしい。


「……こんな僕だけど、これからも一緒にいてくれるかな?」


「もちろんよ。あなたが元気になるまで、ずっとそばにいるわ……」


 彼は私の言葉を聞くと、とても嬉しそうに笑った。


 それからしばらくすると、彼は退院できるまでに回復した。退院してからは、また二人で一緒に暮らし始めた。

 いろいろなことがあったけれど、今の私は、タバコが嫌いではなくなってきていた。


 今日も、私はタバコを吸う彼の後ろ姿を見つめている。彼の吐いた煙が、夜空の星々に混じって消えるのを見ながら───。

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