夏の魔法は延長できるか

@east_h

夏の魔法は延長できるか

 図書室には数え切れないくらいの世界が詰め込まれていて、それでいて私が踏みしめている世界とは交わらなかった。綺麗に並べられた世界を開けば私は私である必要がなくて、そこに描かれている非日常な冒険を、薄味の日常を享受するだけで良かったのだ。

 追いかけっこをしているように、読んだことのない本と読み終わった本の数は拮抗を続けている。全て読み終えてしまうというのも夢のない話であるから、新しい本が棚に加わっていくさまをぼんやりと眺める時間も嫌いではない。

 今日も私は、立て付けの悪い引き戸を開けた。乾いた空気と、紙のにおいがする。


 入学した当時にここに足を運んだのは、友達ができなかったたらどうしよう、だったら読書が趣味の人間だって擬態しよう、なんて浅ましい保身のためだったと今でも鮮明に覚えている。その部屋の住民たちは誰も彼も私に無関心で、それがかえって心地よかった。ただの利用者でしかない私が、かわいらしい童話を手にしていたって、誰も不審がりはしない。


 捲ったページがちょうど挿し絵にさしかかって、ふと物語からそれた思考をしていることに気がついた。自分と同じくらいの年齢の女の子が主人公だったから、自分のことまで考えてしまったのだろうか。まろやかなクリーム色の海で踊る黒い活字は、魔法の世界で戦う少女が、悪の女王に剣を突きつける様子を描いていた。かちり、時計の針が動く音につられて時計を見れば、もう二時間程度読みふけっていたらしい。校舎の施錠を知らせるチャイムに急かされて、私は図書館を出た。昇降口から見上げた空は秋めいた色をしていたけれど、未だ夏の鮮やかさの名残を抱きしめている。

夏の魔法が解ける時間が迫っているのだ。


 半年ほど前、まだ桜の淡い色が校庭ではなくて青空に散らばっていたころ。図書館に見慣れない顔が増えた。自分以外の利用者の顔なんて勿論覚えていないのにそう思ったのは、その相手がカウンターの向こう側にいたからだ。うちの図書委員会は、貸し出し業務をするときに名札を付ける。委員ではない生徒がカウンター内に入り込まないようにするためにそんな仕組みを取っているらしい。そして、その名札の色で何年生か分かるようになっている。その新顔――そう表現こそしたけれど彼は一年生ではない――が付けている名札は緑色で、それは私の履いている上履きと同じだった。ここまで回りくどく考えなければいけなかったのもひとえに彼がカウンターの奥に引っ込んでばかりで蔵書点検などに出てくることがなく、彼の足元を見る機会が無かったからだ。もっともそれはサボり癖があったからというわけでもなく、むしろ私が週に一度しか図書室に通わなかったからだろう。当初の危惧に反して、私にも友達と呼べるような関係性の相手が出来ていたのだ。図書室にやってくるのは彼女たちが忙しくしている火曜日だけだ。なんとなく、この習慣は誰にも言わず、ひっそりと私は図書室通いを続けている。

 

 来週読もう、と貸し出し処理をせずに本棚に置いてきた本は、広い図書室のなかでもあまり人が来ないような場所に住んでいた。それを見つけたのは偶然だったけれど、くすんだ背表紙に惹かれるものがあったのだ。

 その日、私は読みかけの童話を取って席に着いた。定位置があるわけでもないけれど、なんとなく背中側に本棚があるほうが安心して物語の世界に潜ることができた。そんな姿を、知り合いには見られたくなかったのかもしれない。子供っぽいと思われるのを嫌がるほうがそれこそ子供っぽいとは、少し思ってはいたのだけれど。私がページをめくりはじめて少しして、新顔くんがカウンターの中に入っていった。この席は図書室の入り口も、カウンターも見渡せる席だと知ったのはつい最近のことだ。

 彼は秋の掲示物の準備をしているようだった。読書の秋、と言ったところか。淡い黄色の模造紙を前にして、うめき声でもあげそうな様子で悩んでいる。そしてしばらく固まって、不意に何か閃いたようにさらさらと下書きをしていった。

「私、何してんだろ」

 思わず零れたつぶやきは、ページからあぶれた。名前も知らない相手のことをこっそり観察して、やっていることがまるでストーカーではないか。自嘲のため息は秋の空気に溶けていく。

 彼の名札には、彼の名前ではなくて、ひとつだけ緑色のシールが貼ってあった。その植物の名前も、私は知らない。


 それからしばらくして、図書室の前の廊下には、彼が作ったのだろう掲示物が掲げられていた。「魔法の世界への招待状」と題されたそれは、ハロウィンに向けての意図もあるのだろう、魔法が登場するファンタジー作品を中心に数冊が紹介されていた。

「あ、」

 私が読んでいる本も紹介されてる。隅っこだけど。

 他に紹介されている本は私でもタイトルを知っているようなものばかりだったから、少し意外だった。新顔くんもこの本が好きなんだろうか、それとも図書委員の中にあの本を気に言っている人がいるのかもしれない。思わぬところで同士を見つけて、嬉しくなってしまった。ま、特に新顔くんに誰が進めたのかとか聞くつもりもないんだけど。

 だって、私名前知らないし。

  と、そこまで考えて、どうして私がそこまで彼の名前に固執しているのかと思ったとき、きっとそれは今読んでいるあの本のせいなのだろうと遅れて気づいた。主人公は悪の女王に奪われてしまった想い人の名前を取り戻すために、冒険を始めたのだから。

 私の冒険は、いつ始まるのだろう。


 思い立ったが吉日、善は急げ、要するに先手必勝。いつもは借りたりなんてしないけれど、三連休前だって自分に言い訳して私はカウンターにあの本を差し出した。はーい、と受け取った本のバーコードを読み取って、返却日を書いたしおりを挟んでこちらに手渡してくる様子は手慣れたものだ。

「十一月五日までに返却してください」

「……あの」

 なんと切り出したら良いかと言い淀んだ私を見て、彼はひとつ勘違いをした。

「あ、今週末の三連休はお休みですよ」

「名札、なんで空白なんですか?」

「え、名札?」

「うん」

 それ、と私が指さした胸元の名札を見て、彼はようやく私が何の話をしようとしているか分かったようだった。流石に初めて話す人間から名前を聞かれたら戸惑いもするか。

「ああ、みんなここに名前書いてるから……。俺は柊。木編に冬って書くやつ。貼ってるこれは柊の葉っぱ! 節分とかに使うやつ」

「ひいらぎくん」

「はい、なんですか。えーと……、佐倉さん」

「あのポスター、柊くんが作ったの?」

 そんなことを聞かれると思っていなかったのか、柊くんはきょとんと暫くの空白を生んだ。

「俺だけど……。どっか不備でもあった?」

「いや、私が読んでた本が紹介されてたから、誰か図書委員に好きな人でもいるのかなって思って」

「そういうことか! あのポスターは俺が作ったんだよ、結構時間かかったんだ。んで、あの本を選んだのも俺」

「柊くんも読んだことあるの?」

「いや? 俺はまだ読んでないよ。だって佐倉さんがいつも読んでるし、火曜日以外は用事があって借りに来れないし」

 読んだこともないのに、どうして紹介しようなどと思ったんだ。それも有名とは言い難いあの物語を。

 私がそう思ったのが顔に出ていたのか、彼は誤解を解くように顔の前で左手をぶんぶんと振った。

「あ、いや、あの本を選んだのは、その……佐倉さんが読んでるから面白いのかなって思って」

「私が?」

 言い訳する子供みたいに俯いて、柊くんは続けた。

「いつも佐倉さんが読んでるのは知ってたんだけど、ほらカウンターって閲覧席がよく見えるから。読んでるときの佐倉さん、なんだかいつも楽しそうっていうか、よっぽど良いお話なんだろうなって思って、その……」

 め、迷惑だったかな。

 そんな風に黙り込まれては、文句も言えやしない。そもそも、迷惑なんかじゃないのだ。この魔法は、私が独り占めするには大きすぎる。

「そんなことないよ」

「え?」

「迷惑なんかじゃない。柊くんがあの本を選んでくれて、私は嬉しかった」

 私以外にもあの魔法にかかる人が増えるのなら、それは嬉しいことだ。だって同じ物語を共有できるのは、貴重な体験なのだから。

「この本、来週の火曜日に返しに来たら、読まないで置いておくから。その、良かったら感想とか教えてくれたら、嬉しいな」

 ちょっとだけ私の顔を見て、柊くんは表情を和らげた。怒られるとか思ったのだろうか、それじゃただのクレーマーじゃないか。思わず、といったように零れた疑問符は図書室でいやに響いた気がした。慌てて声を潜めて柊くんはこちらに向き直る。

「え、良いの?」

「うん。その代わりって言ったら悪く聞こえそうだけど、柊くんのおすすめ本教えてくれない?」

「俺の好きな本?」

「うん。柊くんの好きな話が知りたい。来週までに一冊決めておいてよ。今度から私、その本読むから」

 カウンター越しに見上げてくる様子が、同年代というよりは年下みたいだ。そもそも名前の代わりにシールを貼るのも、幼稚園みたいな発想ではないか。てっきり名前を明かしたくない理由があるのかと思った。それこそ小説の読み過ぎかな。

「なんか宿題みたい」

「ま、それでも良いんだけど」

 じゃあね、と知り合いになったばかりの同学年に会釈して、図書室の引き戸を開ける。空調が切られた廊下は秋に抱かれた銀杏のにおいがした。夏はとっくに終わっている。

 家に帰るまで、自転車を漕ぎながら柊くんに紹介される本に思いをはせた。どんな本が好きなんだろう、ファンタジーだろうか、それとも時代ものだったりするのだろうか。例えどんな本でも構わないのだ。私が読んでいた本を面白そうと言って、まだ読んでいないと、これから読んでくれると言ってくれたことがどうしようもなく嬉しくて、些細なことだと分かってはいても逸る気持ちが抑えられない。逃げ場だと思っていた図書室で、こんな出会いがあるなんて、一年生の時の私は考えてもいなかった! 私の大好きな魔法にかかってくれたことがこんなに嬉しいなんて! だから今度は、来週は。


 私はきみの魔法にかけられたい。


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