私鉄で新宿に出、東京メトロの丸ノ内線に乗り換える。地下を進むことで発生する空気圧は吐き出しきれない感情の渦。出口を目指して、ただし、陽の目を見ることはない。数駅を茫然とやり過ごしていると、程なく霞ヶ関で下車する。

 収録現場に効率的に出向くならもう一つ先の駅で降りるべきとは知りつつも、運動不足になりがちの声優業を滞りなくこなしていく為、僅かでも足を動かすようにしている。籠りがちな作画作業に忙しいかなこに忠告しても彼女は生返事でまるで聞き入れようとはしない。

 大きく日比谷公園跡地を迂回していく道のりは存外悪くない。皇居に面した桜門の北側にぽつんと佇む日比谷公園記念館にはそこが閉鎖された経緯が大雑把に展示物等で説明されている。実散はその記念館に興味はなかった。あるのはザーヒル。すべてはザーヒル。封鎖線の向こうには魑魅魍魎の跋扈する視覚的幻想が息を潜めているという事実。これが、どうしようもなく心を浮足立たせ、少しでもその空気にあやかろうと心身を研ぎ澄ます。

 やがて、ビル街の中を毛細血管を流れる赤血球の心境で右に左に折れ曲がり、上に下に視線を這わせ、コンビニ二つほどをやり過ごしてスタジオの目の前に実散は立っていた。

 そこは『株式会社ハンプティ・ダンプティ』。旧態依然とは笑えない。それだけの実績が確かにある。メタレベルの環境を手にした今日において、なお、ステレオタイプな集団を一処に寄せ集めた工房。現行するアニメーション制作の手法に抗うようにして屹立するがごとく、一級のクリエーターを擁するそれは、実散にとっての憧れであり、夢にまで見た現実の形だった。 

「私は、呼吸。希望を込めた息吹を運ぶ……キャラクタに命を与える者……」

 臭いセリフを吐く余裕。大丈夫。今日も滞りなく、こなせるはずである。そう、これまでは……。キャラクタそれそのものに入るための実散にとっての呪文はそれだけで集中力を高めてくれる。

 且つて在った自分。

 しかし、それはもうどこにも存在しない。どこかに置き去りにしてそれでも彼女はそこに存在している。では、今の高橋実散とはいったい何を以てして個を維持しているのか? 彼女の過去は幻影として、夜な夜などこぞの町の裏道を誰に顧みられることなく徘徊し続けているのかもしれない。そこに黒い情念にも似た暗い光を目に宿しつつ。

 

 龍禅中は恐らく天才の部類に入るアニメーターだろう。夜な夜な日比谷公園跡地に不法侵入し、その場の霊的なエネルギーに精神を同調させることで類まれなるインスピレーションを得ている、という噂は嘘か真か……。実散にはその様が変態的だと感じさせる。ザーヒルに死の予感を覚えることはないのか? 否、その死線を越えることでしか得ることのできないナラティブがそこにあるのかもしれない。個人的にはどうでもいいことでも、全体を俯瞰したときには決して無視の出来ない御業。なるほど、カルト的な信仰心をこと一つの作品に集中させるからには、やはり教祖とでも綽名してこそ相応しいだろうか。

 ずんぐりした体形の上にちんまりと乗っかった顔にはおじさん然とした平凡さを醸し出すも、小綺麗に整えられた髭や眉、頭髪あるいは年に似合わぬ張りのある肌とで、愛嬌と呼んでも差し支えない親しみやすさを現している。苛烈極まる制作現場で悠々として、自然態を崩さない在り様も総指揮官としての姿勢に違わぬ威厳に満ちている。

 つまり、超然としたプライドが彼を支えているのだろう。それに見合うだけの実績を龍禅中という人間は成してきたのである。アニメーションを一手に作り上げられる環境を整え、籠城を決め込む彼は、まさに数多の財宝を守護する龍と、幾重にもレイヤーされた現実世界の中でも声高に賞賛されている。

 猛威を振るったパンデミック後の分断された世界で、なおも一つのコモンセンスとして万人に共有されている龍禅中の作り出す世界はそれだけに偉大といえた。

 彼の下でアニメに携わる自分。それを実散はどれほど夢に見てきただろうか。それが叶った瞬間のまるで乙女のような煌めきを忘れることなどできようか――

 そんな龍禅中を羨望の眼差しで迎えていた時期はとうに過ぎ去った。実散の奥深く、はけ口のない感情の渦は憎悪と嫌悪と失望が絡み合いどす黒い色彩を帯びている。殺るしかない。準備というほどの仕掛けは考えていない。こういうことは刹那的に。あるいは、突拍子もないさり気なさを以てして遂行するのが重畳と弁えている。

 龍禅中を天上の神のように崇めていた自分はまだまだ子供でしかなくって、とどのつまり、彼とて例外に漏れることなく一人の人間に過ぎなかったと知るに及んで。

 その事実は、かなことの日常を脆くも破壊するに十分過ぎる代償を払ったのだから。

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