それは出来レース。あらゆる意味で決定された事柄だった。それを理解したころにはすべては終わっていた。想像するのも悍ましい所業が我が身に降りかかるとは……、と――それはやはり実散という人間の稚拙さからひねり出された些末な考えに過ぎなかった。

 全細胞が弛緩するほどの怖気に為すすべはなかった。狂喜と乱舞の果ての事実は残酷で、実散とかなこの関係性に大きな断絶を生み出した。

「世界の分断は普遍性を破壊した。それに伴い、私たちはより強固な主観性を求めた!」

 制作過程にあるアニメのワンシーン。

 かなこも作画に携わっていると思うと演技にも力が入る。

 覇気に満ちた声は実散の演じる主人公であるアイリスのもの。

 その確かな声に潜むのは、実散という個人の存在以上にアイリスのそれの方が影を濃くすること。陰影のはっきりとしたシルエットを。実散が演じる事を自覚的に発揮するまでもなく、この役はしっくりと馴染んだ。骨身に染み付いた生をわざわざ演じ分ける必要はない。これも一種の魔術だろうか。龍禅中の作り出す世界の一個人に過ぎないキャラクタはどこか白々しくも現実以上に現実感を持っていた。

 がつん、と脳を揺さ振る言葉だと、実散はこのとき感じていた。

 胸のむかつく気持ちの悪さのようなもの。

 それはキャラクタの発する言葉なのか私自身から生じた言葉なのか。曖昧として境界が解らなくなるような錯覚をしばしば感じるのだった。

「ザーヒルとは何か? あなたはそんな風に見ているのだろうけど。答えは個々の中にしか存在しない。それが今ある世界。それがよりよいものであるかは、あなたにしかわからない」

 実散が不可解なものを目にするようになった後、かなこに言われた言葉が甦ってくる。アイリスのセリフはあれを幾層にもレイヤーしてなぞっているような気がする。これも一つの変化。おそらく、かなこはこんなことを口走ったりはしない。似通った思想を視た。龍禅中と前田かなことの間にぼんやりと繋がる共通性を発見する度、実散の胸は張り裂けそうになっていった。

 確かに前田かなこは仕事としてアニメの作画を担当する。それも一級の技を持つ彼女だからこそ龍禅中の下で働くことを許されている。同じ環境同じ作品に打ち込む者同士通じるものはあるのだろう。しかし、それにしても、……。

 些末な発言。かなこに予言されたように上り詰めていった自身の立場――もとは下らないアダルトアニメのアフレコなどを好きでもなく続けていた。そうせざるを得なかったし、確かに下らないと思いながらも役を与えられる悦びはあった。淫靡なセリフを要求されても、それでもやりがいはあった!――転落することが一瞬ならば上り詰める瞬間もまたたくような時間の中に内包されていく。気が付くといくつかの大きい仕事をものにしていた。実感もないまま『ハンプティ・ダンプティ』制作の新作アニメーションの主演の座を得ていた。

「才能はあったんだよ。ただ、それ以上に運も良かった。ノリのある人間はある種の業界人なら見抜ける。細かなチャンスをものにしていった事実なんだから、素直に喜べばいいのに」

 抑揚なくかなこに言われた。彼女の目には私が映り込み、しかし、そこには戸惑いにも似た迷いのようなものを視た。

 運。それを偶然と捉えられるかどうか。客観性ではなく主観的な問題だ。実散の中に要らぬ疑念が過る。だから、運。それは何かによって運ばれてくる代物、と。

 かなこ、ああ、かなこ。あなたはいつからそんなにも、退屈そうな顔をするようになったのだろうか。

 すれ違う日々。よからぬ噂を耳にする。収録現場の傍、地階から上がる踊り場の影から声がする。

「前田かなこと龍禅中は関係している。知ってるでしょ? 人から言われなくっても、知ってるでしょ?」

 耳を塞ぐ。マンホールの蓋がなくっても、ほのかに暗い淡いの中からそいつらは私に話しかける。

 やめろ。

 やめてくれ。

「かなこは私のこと――」

 その口を塞がれた時、それの質が以前と違っていることに気が付いた。かなこがこんなにもねちっこく湿り気の帯びた接吻を押し付けてくることは且つてなかった。興奮以上にどす黒い感情がかなこを滅茶苦茶に破壊したいと衝動する。全身から引いていく血液の流れと供に、絶頂に達する頃には疑う余地なくそれは形を持ち始めていた。

 違和は既視感となって、嫌悪と疑念と嫉妬を呼び寄せる。

 ほら! そこのスクリーンの裏側からこちらを伺っているずんぐりとしたおじさんの顔が見えるだろう?

 はっ、と振り返ってモニターの前で頻りに指示を飛ばしている中の姿を認めた。役に戻るためにスクリーンに向き直ると、そこにはアイリスの天真爛漫な笑みがあるのみ。彼女は天を仰ぐ。ハンプティ・ダンプティが高い塔の上から今にも落ちそうな危うさをコミカルに描いている。そんなワンシーン。

 考え過ぎている。自分は必要のない共通点を都合よく見つけだそうと無意味なことを繰り返しているに過ぎない。

 映写機から投影される映像に刷り込まれているパンチマークを認めると目が自然と彷徨ってしまうような。そんな些末なこと。ただし、無視はできない。

 些細なことの連続は不自然さを意識させる微量の毒に等しい。ヒ素、アルセニックイーターなる特異体質――人はそれを〝鈍感〟とよぶことだろう――を有さない実散には無視し続けることのできない壁の染みとなって、徐々にかなことの関係の違和を発見する。

「アニメの主役、おめでとう」

 思えばこの言葉からして嘘くさく、胡乱な響きを帯びていた。

 かなこの抑揚のない言葉には慣れていた。実散もそうだが、彼女の独り言のような呟きは、日常の会話ですら聞き流してしまいがちな空気がある。というのに、このときのそれは妙に尾を引く、粘ついた質感を声の内に潜ませているようであった。


 オーディションは出来レース。そうに違いない、そうに決まっている。そうであってくれなければ、捌け口のない実散の感情をどこに吐き出せばいいのだろう。中に直接訊き出す勇気は終ぞなかった。

 でもまた、別の疑念を抱かずにはいれない。役を演じ始めた頃から実感していた質感だ。

 このキャラクタは私のためにある。理想を具現化したような追体験を実散にもたらす、これはかなこからの贈り物のように感じてならない。あるいは、かなこの〝高橋実散はこうあるべき〟という情念、あるいは怨念か。

 アイリスのキャラクタ原案はかなこのものだった。

 答えなぞ解らない。

 答えなぞ要らない。

 すべては主観的な問題に過ぎない。

 暗転したビル群の中をひたひたと歩む。

 周囲のことになどまるで頓着する様子がない、中の背中。ずんぐりした体形は夜闇の中で不気味な卵男を連想させる。日比谷公園跡地の封鎖線を潜ろうとしているようだった。あの噂は本当だったのだろうか。無数のザーヒルの中で得るインスピレーション。いや、そうとも限らない。中の内でどのような現実がそこにあるのか実散が知る術はないのだから。たしか、記憶ではそこは――入口ともいえない草木(銀杏、樫、ハナミズキかツツジかアジサイか。品種は判然としない)に覆われたトンネル―大噴水が近くにあったのではないか。

 息を潜ませスタジオから一人で中が現れるのをずっと待っていた。このまたとないチャンスを逃す理由はない。中に続いて実散も封鎖線を越えていく。

 鬱蒼として肌寒い空気が公園内には満ちていた。想像したような荒廃は感じられない。管理が行き届いている? 何者かに目撃されるリスクと、抑えられない感情とを天秤にかけて、そこで息が漏れた。端から選択肢など設けていないはずだろう。

 事は手早く済ませてしまいたい。どこからとは言わないが、この場所には足を踏み入れてはいけないと錯覚させる神聖を垣間見せるから。

 吐く息が白く熱い。目の中に黒を流し込まれる。先を見ているつもりで、まったく道は存在しない。ただ、中の背中は相変わらずはっきりと捉えていた。二人の間にさしたる距離はない。近い遠い。さわさわと囁き漏れる葉擦れの音。新緑に満ち満ちた生命の香り。冬だというのに暖かな木漏れ日が感じられる。夜も深いというのに……、そんなはずはないのに……。ここは日常とは乖離している。

 ならば、と逆に確信めいたものを実散の内にもたらす。

 ここでなら、私の愚かしい行為も正当化されるのではないか、と。

 あるいは、これもザーヒルの一種か。考え方を少し変えればそれは強迫性障害に近い神経の衰弱に他ならない。違いと言えば、確からしい治療法が存在しないことだけだ。

 視たら忘れられない、忘れようとすればするほどザーヒルは精神を乗っ取ろうと歩み寄ってくる――中の背中――体内の不具合と同じようにザーヒルはある――マンホールのおじさん――セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンの過剰な放出と急激な減少は心身ともに人を疲弊させる――かなこらしくない、淫らな接吻――そして、それらを透過する術を人間はまだ発明できていない――世界の分断――この不安定な感覚こそザーヒルだ。沸々と湧き上がる灰汁と何が違うというのだろう。とどのつまり、生きるとはそういうもの、善も悪も一緒くたに吐き出される生理機能とさして変わりのないこと。

 握る包丁の柄が震える。要らぬ力がそうさせる。慣れないことをしようとしている。もとより、理性的に間違った答えをだそうとしているのだから、震えても当然か。

 靴底が立てるゴムの擦れる音まで消すことはできない。一応、服は黒で統一し、髪の毛も帽子の内に押し込めている。手袋もしている。この日の為に、ありもしない中の姿を妄想し、追跡と殺害を、繰り返し繰り返し道すがらシミュレートした。あとは、誰にも目撃されていないことを祈るのみ。そうすれば、証拠品を処分する方法を考える手間も省ける。

 一応考えはある。それを生活の一部に組み込んでしまえば済む。それは自然であり、嘘らしさを排す。罪の意識を残し、常に罰を受けることが、殺人の免罪符となればと、無理やりでも納得させてやる。まあ、かなこには口が裂けても言い出すことはできないだろうけど。

 少し落ち着いてきた。中の背中との距離は近い。事は一瞬で決す。膨大な思考の時間を瞬く間に圧縮して、背中の肉を抉る感触はリアルをもたらす。

 実散は駆け出した。一々、中がどうなったかなどに頓着している場合じゃない。そろりそろり、と中がより密度の濃い暗がりの中に消えていったことだけ認めて――しかし、そんな状況を本当に見たのだろうか?――ザーヒルに手招きされるように覚束ない足取りで闇に消えていった――そうに違いない――でも、手の中には人一人分の厚みがはっきりと意識される――今日はおとなしく家に帰りなさい――うるさいうるさい!――地下鉄の轟轟とした走行音に意識を傾けて、何気ない風を装う。誰も気にしない気にも留めない――でも、あの廃墟の奥に巣食う魔物なんて本当は存在しない――ザーヒルは常に自分の内に潜む――龍禅中はなぜあのような場所に夜な夜な足を運ぶのか――気圧の変化で耳の中で空気が割れる。ぱりん、という響きで目が覚めた。

 少しの間、座席で居眠りしていたようだった。

 間延びした時間の中を微睡み、また、明日を迎える。

 当たり前の日常も非現実的な日常も判断できない。それは当たり前の真理ではないだろうか。

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