二
前田かなこの一直線な情熱は煩雑な物事を一級のイメージに落とし込むことを可能にし、また彼女自身の人格形成に大きく影響するものだった。いわゆる、まじめで真摯な態度で日々を過ごす彼女の印象は事務的な工程を淡々とそつなくこなす、自立した大人像に嘘のない姿として周囲の目には映った。しかしながら、どこまでも仕事に打ち込める彼女を傍から見ている実散の感想はそうではなかった。屈折することを嫌い、どこまでも純粋を追求する感性はどこか破滅的な生き方のように感じる。あるいは、己を曲げずに滅びるならば本望である、と作業に打ち込む背中が語っているようで落ち着かない気持ちにされることがしばしば見受けられた。
もともと、前田かなことは家をシェアするだけの関係だった。お互いに無関心というほど冷めきったものではないものの、特別な相手として意識するような間柄ではなかったはず。勿論、前田かなこをリスペクトする気持ちはあったし、向こうもそういう風に見てくれているとは思っていた。
お互い無鉄砲に田舎町を飛び出して、大都市の只中で夢に向かって邁進する日々。疲れは心地よく、簡単な仕事ひとつでもこなせば何物にも代えがたい達成感を得ていた。そんな似たような境遇に意気投合した夜の酒は美味しかったことを、いまも鮮明に思い出すことができる。
お互いあの頃、飛び込んだ世界は只々眩しくて、将来に対する否定的な感情などあり得ないものだった。ろくな食事すら摂ることの叶わない惨めな私生活が続くことも情動の糧となる。侘しい通帳の数字を数えながら、支え支えられて、そうやって手に入れた理想とかけ離れた住処は希望に満ち溢れ、想いが零れ落ちていくことも知らなかった。
たった一つのかけ違いから綻ぶ現実を知る術と、それを教える誰かしらがいたならば話も違っただろうか。
白蟻に食い潰されて、地盤が歪んで、積み上げてきたものの重みで崩れ去ろうとする現実を直視することもなかっただろうか。
つまるところ、高橋
無知蒙昧、根拠なき自信と膨らみ続ける虚栄心。気が付くと傷口に塩を塗り込むように、お気に入りのぬいぐるみを労わるように、互いを求めて慰め合う日々が、今ある現実の線上に重くのしかかっていた。
重みだったのか? 少なくとも、心に嘘偽りはなかっただろう。
でも、だとしたら私たちには何が欠けていて何が必要だったのか。結果? 成功? 発展? どこまで突き詰めても決して手には入らないものの埋め合わせのために恋人の真似事をして誤魔化す。
一歩間違えればこの欺瞞はいとも容易く剥がれ落ちるのは明白であった。
まあ、好きとか嫌いとかで割り切れるような簡単な関係ではないことだけは断言できた。
心はあまり単純ではないことはよく心得ている。
「いつになく真剣な様子で絵を描いてるね。なにを描いてるの?」
もちろんそれは絵に他ならないわけで、では何と訊かれると答えに窮する。
「見たら死ぬ絵」
手を動かすことは怠らず、それでいて淡白な調子の声が答えた。
「ベクシンスキーみたいな?」
三回見たら死ぬ。確かそんなことを言われている絵がこの世には存在する。ある種の都市伝説のようなものだろうが、目に見えるものの中でも嫌な胸騒ぎを呼び起こす類の絵を、出元が不明であるように偽装しネットで配信すればいくらかの人間にはその嘘は見抜けない。フィクションと知りながらも、一度、張られたレッテルを剥がすことの困難さはネットミームの性質として興味深い。在りもしない幻想を見る。その行為自体に意味があって、実体を求めてはいない/在ってはならない。それはこの世界の真理を語るような陶酔感を呼び覚ます。
「真剣に作業してるからなにかと思った。でも、変な話。それってつまり、一番最初にそれに触れた人はどうなるの?」
つまり、創作者本人の死。
「できるものならそう在るべきなのかもしれない、ね」
筆から手を放してこちらを仰ぎ見る。どこか物憂げな眼差し。こけた頬。常に繁忙期にある彼女から生気を感じ取ることは難しい。それらはすべて書き上げた絵に吸い上げられているようだから。
「冗談じゃない。て言ってもかなこは止まらないんだよね」
下らないこととして笑ってやればいいのか? まあ、彼女ならそんな御ふざけに貴重な時間を費やしはしないはずだ。
「不気味の一言で片づけられない異様な存在感を放つ絵ってあると思うの。それには色々な逸話が創作される。付加価値のようなもの。それはある種の魔力を持って見る人の内面を大きく変化させる」
そういうものを目指したい。という。まだ下書きの段階で錯綜する点と線が幾何学模様を作っている。色を重ねながら、内側に血肉を潜めて、そうやって何層にも重なった絵具からやがて巨大な化け物を創造する。
「私は誰かを殺せるような絵をかかなくっちゃならない」
「それはなんで?」
「その魔力を手に入れない限り私はいずれ実散に置いていかれるから」
「私はあなたを置いて行ったりなんてしないけど?」
「嘘。これは時間の問題。あなたには確かに、あなたの声には魔力が宿っている。その声はいずれ人を殺せるほどの力を持つ」
例え方が物騒ではあるが、要はそれだけの魅力を持つ声を持っている。その声はやがて天下をも取る。かなこはそんな未来を信じているのかもしれない。
「過大評価。でも嬉しいな。聴いたら死ぬ歌とか歌わないといけないのかしら?」
「そういうのも、あると思う。声は嘘じゃないから。絵が本物になることはないと思うから。だめだね。自分が信じられないようじゃ誰かを殺すことはできないよ」
「私は応援するよ。見たら死ぬ絵。だって、」それで私が死ねるのならば、それはなんだか途方もないことに思える。「それにかなこの才能は本物。そこに写し取ることができなかったとしても、私はその背中をいつも見てきた」
いつかどこかで、出どころの知れない絵に恐ろしい魔力が宿るとき。誰も聞いたことのないような恐ろしい声の歌が流れるとき。それは、私たちの存在を超越した何かが創作物に宿るとき。私たちは不変の存在になるのかもしれない。
いつの頃の出来事か。眉唾めいた奇妙なやり取りが確かにそこでは営まれていた。いまとなっては、それがどこにあるのかすらもう解らない。
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