第3話 朝露の愛




『────お父さんのような人になりなさい』


 この言葉は私・鈴原楓が物心ついたときからずっと言われ続けてきた言葉だ。

 父である鈴原直樹は何のコネもない状態で政界に飛び込み、今では厚生労働省の大臣まで上り詰めた凄い人だ。そして私は、そんな父が40過ぎの時に生まれた。その後は父の仕事が忙しかったため、一人娘として懇切丁寧に育てられた。

 母は有名な財閥の三女で、当時20近く年が離れていた父とお見合いし結婚したらしい。その影響か、5歳頃から私は両親とともにさまざまなパーティへと出席させられることが多かった。


「あら! その子が楓ちゃん? お母さんに似て可愛いわね~」


 あるパーティーで、母方の親戚が私に話しかけてきた。当時は引っ込み思案だった私は知らない大人が大勢いる場所に行くのがストレスだった。


「ありがとうございます。ほら楓、ちゃんと前でご挨拶しなさい」


「あ……えっと、その……」


 母に背を押されながら、裾をぎゅっと掴んで俯く私。それを見て、叔母は嘲るような視線を向けてきた。


「ふっ、ごめんなさいね。楓ちゃんにはまだ早かったかしら」


「そ、そんなことないですよ! ほら、楓!」


 その言葉を受け焦って背を押す母。この時なぜ母が焦っているかなんて、私には見当もつかなかった。


「よいのよ、まだ気にするような年でもないのだから。じゃあ、私はここで。……野蛮人と落ちこぼれの娘じゃ、あんなものかしらね」


「そんな……まっ……ッ」


 先ほどまでの笑みはどこへやら、もうこちらに興味はないといった様子で背を向ける叔母。

 私は知らない人が居なくなってスッキリした気分だったが、隣で立つ母はそうではなかった。


「……来なさい、楓」


「? うん」


 私の腕を掴んで、どこかへ連れて行く母。不自然なまでに力が籠められたその手は、何処か震えていたようにも感じた。

 そうして、私の抗議の声を押さえて連れてきたのは廊下の奥まった場所。照明が当たらないせいか少し薄暗く、人目のつかない場所だった。そこで、母はしゃがみこんで私の肩を両手で掴み、じっとりと昏く淀んだ眼をこちらに向けた。


「いい? 挨拶をしろって言われたらちゃんとするの。この前教えたでしょ?」


「で、でも……」


「でもじゃない。お母さん言い訳する子は嫌いよ」


 当時なぜ母がここまでこだわるのか、私には分からなかった。

 けれど、幼いながらに私は、こちらに目だけ向けつつも、母の瞳に私が写っていないことは何となく理解していた。


「……うん」


 母に嫌われたくなかったため、素直に頷いた。もし私が上手くやれば、私のことを見てくれる、向き合ってくれる。そう思ったのもあっただろう。


「良い子。じゃあ、今から頑張れるわね?」


 思えば、この時から私たちの関係は、普通の親子とはかけ離れた、歪んだモノだったのかもしれない。






「ただいまお母さん! 見て! 算数のテストで100点取ったの!」


 それから数年たって、私は東京にある私立の小学校に入学した。

 人と話すのが苦手、なおかつ特殊な家の子だというのは自覚していたため、友達ができるか心配していた。しかしそれは杞憂に終わった。いくら裕福な家庭の子が多いとはいえ、まだお互い小学生だ。家柄や両親のことで変な目で見られたりはせず、友達も多かった。

 ……まあ、本当に心を許せる人が居たかと聞かれれば疑問が残るけど。


「あら、頑張ったわね楓。この調子でもっと勉強するのよ」


 テストのデータが入ったタブレットを持って、嬉しそうに笑みを浮かべる母。普段は厳しいけど、私が結果を残したときは素じかに褒めてくれる人だった。

 小さい頃から失敗ばかりしていた私だったが、勉強だけはとても得意だったのだ。たまに小さなミスをするけれど、小学校のテストはほとんど100点を取っていたと思う。


「あのね、お母さん」


 先生や友達にも褒められ、厳しかった母にも頭を撫でれている。そのためこの時の私は、少し調子に乗っていたのかもしれない。


「ん? どうかした?」


「私、ほしいのがあるんだけど……」


 遠慮がちに呟く私に対して、母は笑みを浮かべながら手を叩いた。


「珍しいわね。この前買ってあげた本はもう読み終わったの?」


「うん」


「いいわね。じゃあ新しい物を買ってあげる。小さい頃から本を読むと、教養のある人になれるのよ? 楓も大きくなって来たし、ちょっと難しいものにしてみましょう」


 今までものをねだらなかったためか、母はすっかり新しい本か何か……勉強の道具などを欲しがっていると勘違いしているようだ。

 しかし、そんなものは飽きるほど受け取っている。この前貰った本だって、まだ半分も読み終えていない。


「ち、ちがうの……その、皆であそべるげーむ……が欲しくて」


「ゲーム?」


 その単語を聞いた瞬間、母からスッと表情が抜け落ちた。


「どうして、そんなものを欲しいと思ったのかしら?」


「! ……えっと、クラスのみんなが話してて……私もやりたいなって」


 先ほどまでの嬉しそうな声色は何処か、冷たく問いただす母に私はしどろもどろになりながらもそう答えた。

 皆が楽しそうに話す中、私だけ会話に混ざれない事にもやもやした気持ちを抱いていたのだ。当時にしては、珍しく自分の意志をはっきりと出したと思う。


「あなたの仕事は勉強すること。きちんとお受験して、良い中学校に入らないといけないの。分かるでしょ?」


 しかしそんな私の嘆願を聞いても、母の視線は未だ冷たいまま。


「でも、みんな「でもじゃありません。それ、あなたの悪い口癖よ」」


 そうだ。私はいつも言い訳ばかり。嫌な事から逃げ続け生きてきたのだ。

 ……でもそれの何が悪いの? クラスの男の子は頼めば買ってもらえたと言っていた。子供はわがままを言う生き物じゃないのか。なぜ私だけ許されないのか。


「……ひどいよお母さん。私こんなにがんばってるのに……お母さんなんてきらいっ!」


 そんな鬱憤が溜まっていたのだろう。次の瞬間、私は母から背を向けて部屋を出て行った。


 ────母に対して、初めての反抗だった。


「なっ! 楓! 待ちなさい!」


 母の声を無視し、私は廊下を走って自分の部屋へ戻ってきた。途中ですれ違ったお手伝いさんたちの驚いたよう顔が妙に印象に残った。

 扉をバタンと閉め、私は布団に飛び込んで枕に顔をうずめた。


「ひぐっ……うっ……っ!」


 子供らしい癇癪の仕方だ。今までずっと言うことを聞いてきた私にしては珍しく、母はたいそう焦っただろう。

 結局父の説得もあり、『成績を維持し続ける』『毎日決めた時間しっかりと勉強する』

 この2つを条件に、私の願いは叶うこととなった。


「やったぁ! お母さん、ありがと!」


「……ええ」


 欲しいものが手に入って喜ぶ私を尻目に、母は何処か気まずそうに私を見ていた。彼女がどんな気持ちで私に視線を向けていたかなんて、私には想像もつかなかったけど。






 それから3年ほど時間は過ぎ、私は小学4年生になっていた。

 基本的に中学受験をする際は、小学3年~4年生辺りで塾に通い始めるのが普通らしい。その例に漏れず、私も1年ほど前に家庭教師を雇った。

 塾とは違って、家でマンツーマンで教えてもらうのだ。さぞかしまじめに勉強するだろう。……そう思っていたんだけど。


「こら楓ちゃん! また宿題サボったでしょ! 今日こそはちゃんと机に向かってもらうわよ!」


「えー。どうせ前のテストも100点取れたし別に良くない?」


 そんな予想とは裏腹に、私は盛大な反抗期に入っていた。ドタドタという足音を鳴らしながら、1人の若い女性が部屋へと入ってくる。そう、この人が私の先生だ。

 ……まあ、一応これにはちゃんとした理由があるんだけど。


「んもう……ちゃんと定着させないとダメだって言ってるでしょ? 試験の問題はもっと難しいのに」


 1つは周りの子たちに比べ、私の成績が優れていたためだ。

 学校の通知表は全てとても良く出来ましたに〇が付いていたし、テストのミスもこの頃になると全くなかった。先生からは優等生として扱われていたし、勉強が苦手な子に教えてあげたりもしていた。


「先生が教えてくれてるんだし大丈夫だって~。先生の教え方すっごく分かりやすいし」


 ベットで横たわってゲームをしつつ、適当な返事を返す。


「……そんなこと言ったって、許してあげませんから」


「別にそんなつもりじゃないし……じゃあ30分だけ一緒にゲームするのはどう? そこからはちゃんとやるから」


 母相手なら考えられない発言だ。


「……仕方ありませんね。30分だけですよ」


「わーい! 水無瀬みなせ先生大好き!」


 2つ目の理由はこのやり取りを見ればわかるだろう。

 私の家庭教師・水無瀬みなせさくらはチョロいのだ。もうそれは超が付くほどちょろいのだ。


「お母さんには内緒ですよ? 怒られるのは私なんですから」


「どうせしばらく帰ってこないし、大丈夫だよ」


 そして3つ目の理由は、水無瀬先生が家庭教師に付いてから母が家を空ける頻度が増えたからだ

 何処に行っていたかなんて知りもしなかったが、常にアレコレ言ってくる母が居ないため、わがままも言い放題。抑圧された反動を一気に先生に押し付けている形になったのだろう。


「……じゃあ、今日こそ私が勝つわよ! 昨日までの先生と同じとは思わないでね!」


 どうやら今日一緒にやるのは格ゲーに決まったらしい。こういうところが舐められる理由だと思うんだけどなぁ……

 もちろんボコボコにしてあげた。涙目になってる先生は可愛かった。




 その後2時間ほど問題を解き、休憩時間に入ったときのこと。

 私はふと気になった事があったので、テーブルの対面に座る先生に声をかけた。


「ねぇ」


「ん?」


 私から話しかけるのは珍しかったのだろう。先生は不思議そうにくりくりとした、大きくてきれいな瞳を向けてきた。


「水無瀬先生って、なんで私の先生になったの?」


 こうしてほぼ毎日会う生活を続けて1年近く経つが、私は先生の個人的なことは何も知らない気がする。

 先生は家のお手伝いさんや、親戚の人たち、はたまた学校の先生とも違うタイプの大人だ。言ってはなんだけど、どこか庶民的というか、そんな雰囲気を感じる。

 ……まあ、普通の人がどんな人なのかなんて、本とか映画とかでしか知らないんだけどね。


「ええ~? それ聞いちゃう?」


「うん。だって気になるし」


 どこか恥ずかしそうに髪をくるくると弄る先生。

 先生のことが好きだからとか、そんな純粋な気持ちではなく、ただの知的好奇心だった。自分の知らないタイプの人間が、一体どんな人間なのか。


 ────思えば、こうやって他人の人となりを知りたがるのは、私の自衛手段だったのかもしれない。自らの懐に入れていいのか、そうじゃないのか。それを推し量るための処世術だったのだろう。我ながら、警戒心の強い生意気な子供だ。


「楓ちゃんは、お父さんがどんな人か知ってる?」


「……まあ、何となく」


 その出だしを聞いた瞬間、私は少しだけがっかりした。

 自分から聞き出しておいて『ああ。また父の話か』なんて思ってしまったのだ。


「私はね、あなたのお父さんに凄く救われたの」


 しかし、私が今まで耳にタコができるほど聞いてきた父の話とは、また少し違う角度からの話だった。


「救われた?」


『救われた』とはまた珍しい話だ。

 大体他人の口から出る父の話は、思ってもいないおべっかを使われるときや、『野蛮人』などと言った悪口が大半だったからだ。


「そう。あなたのお父さんって、 とってもすごい人なの!」


「それは……私も知ってるけど」


「うん! もし楓ちゃんのお父さんが居なかったら、私は妹共々野垂れ死んでたかもしれないし」


「野垂れ死ぬって……てか、妹居たんだ先生」


 初耳だ。確かに年下の兄弟が良そうな雰囲気は感じたけど。

 確か先生の年齢は


「ええ。3つ下の、大学生の妹がね」


「へー。でも、救われたっていうのは?」


 この時点での興味はほとんど薄れていたが、こちらから振った以上は最後まで耳を貸さなければいけないだろう。


「5年前くらいかな? 楓ちゃんのお父さんたちが初めて与党の議員になった翌年に、とある制度が施行されたの。巷では、『究極の就学支援制度だ!』なんて言われてたんだけど」


「ダッサ」


 思わずそんな言葉が口から漏れてしまった。あの厳格な父がそんな名を流布するとは思えないため、当時のマスコミが話題集めに付けた名前だろう。


「あはは……でもね、その名前に負けないくらい凄い制度だったの。学費の問題で大学卒業ですら怪しかった私が、博士課程まで修了できたし」


 悪態をついた私に苦笑いをしつつも、先生は強い意志を感じさせる瞳でこちらを見つめてきた。


「だから、私はそんなお父さんに恩返しがしたいの。私の道を切り開いてくれた、あなたのお父さんに」


「……ふーん」


 感動的な話だ。先生の人となりがよく分かる。だが、父に救われた人間なんて大勢いることを私は知っている。この話も、所詮は大勢の内の1人でしかない。私はそんな冷めた感想を抱いてしまった。

 しかし、そんな最低な感想は、次の衝撃的な言葉で吹き飛ぶこととなった。


「楓ちゃんにちゃんとお勉強を教えて、幸せに暮らすための選択肢を、なるべく増やしてあげれたらって思ってる。別に、。自分の道を見つければ」


「えっ?」


 『父と同じ道を歩まなくてもよい』そんなこと言われたのは、生まれて初めてだった。周りは皆父を持ち上げるばかり。そんな中、父のお金で雇われている先生が、こんなことを言うとは思わなかった。

 呆気にとられる私を置いて、先生はこう続けた。


「周りの人はお父さんみたいになってって言うかもしれない。もちろんお父さんは凄い人よ? でも、一本のレールだけを子供に与えるのは、ただ考えるのを止めているだけだと思うの……だから、楓ちゃんの可能性を私にも考えさせて。だって、私はあなたの『先生』なんだから」


 私の手を取りながら、そう微笑みかける先生。


「……先生って、変わった人だね」


「ええ!? 酷いよ楓ちゃん! ちょっと感動する場面じゃないの~?」


 ────初めてだった。他人から、ここまで純粋な気持ちを向けられたのは。それを受け取った私は、気恥ずかしさからか素っ気なく返すことしかできなかった。

 1人冷たい水の中でジッとしていたのに、急に暖かい所に引っ張り出されたら、心地よさよりも驚きが勝るでしょ? 簡単に言うと、そんな気持ち。


「休憩終わり」


 冷え切った心が暖まるのを自覚したとき、私は右手にペンを握っていた。


「え? まだ5分しか休んでないよ?」


「いいよ。早く終わらせて一緒に遊ぼ」


 あんなことを言われて、のんきに休憩していられるほど、私の心は死んでいなかったみたいだ。


「……! そうね! 一緒に頑張りましょう!」


 ペンを走らせているのに、わざわざ私の手をもう一度取り直してブンブンと振る先生。……暑苦しい人だ。


「ふふっ、手離してよ先生。鉛筆、握れないでしょ?」


 ────この人となら、私は頑張れるかもしれない。

 

 そんな気持ちで進める勉強は、いつもよりちょっとだけ楽しかった。



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