悪魔の加護

 黒くおぞましい手は、かつて母親から聞いた話と似通っていた。

「この世には四種類の人間がいるの。まずなんの加護を受けていない人間。この人たちが一番多いし、たぶん一番幸せな人たちよ。あとは精霊、天使、そして悪魔の加護を受けた人たち。この三種の加護は、一見悪魔が怖いように思えるけど、じつは天使も同じように恐ろしいのよ」

 編み物をしながら記憶の中の母親が言う。

 真珠のような真っ白の髪が肩の上で切り揃えられている。いつも前髪だけは自分で切るのだが、母親は器用とは言い難い。現に手にしている編み物の編み目がボコボコと浮き、ところどころ穴が空いている。そのため毎度の如く失敗し、今日もギザギザしている。

 その前髪をじっと眺めるラヴィールに、母親は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「悪魔の加護を受けたら黒いモヤみたいなものが実体となってみえるの。とても怖いと思うでしょうね。一方天使は穏やかな光が実体となるの。天使のほうは神々しいと思うでしょうね。けど見た目に騙されては駄目よ。この二つの力は拮抗するもの、つまり同じくらい強いものなの」

 母親が起き上がって編み物までしているこのとき、ラヴィールはまだ幼かった。そのため母親の言っていることのほとんどを理解していなかったのだが、唐突にそのときの光景が脳裏に浮かんだ。

 つまり、オルガ嬢は悪魔の加護を受けているらしい。その力を使っている、といえばその通りなのだが様子がおかしい。

「オルガ様」

 寄ろうと足を踏み出した瞬間、ジリッと耳鳴りがした。殺意を前にしたときの感覚と同じものだ。瞬時に飛び退くと、黒い腕が伸びてきた。元いた場所の地面を#抉__えぐ__#っている。もしあの場所にいたら骨が折れていたかもしれない。

 なぜ、とオルガ嬢のほうを見る。今までの態度はたしかに生意気だったしお咎めがなかったのも令嬢の寛容な心のおかげとしか言いようがなかったため罰があってもおかしくはない。おかしくはないが、いま怒りをぶつけられるというのはあまりにタイムラグがありすぎる。

『こないで』

 令嬢の声がした。怯えているのか、声が震えている。

『なんで戻ってきたの。ソフィを呼んできてって言ったじゃない』

 オルガ嬢の言葉に反応するように、黒い手はラヴィールを追いかける。

「そりゃ、言われましたけど!泣きそうなあんたを置いて逃げるほど良心がないとでも!?」

 避けながらオルガ嬢に叫び返す。

『こないでほしかった。わたしは力を制御できるわけじゃない。だから気絶させられなきゃ収まらないの』

 オルガ嬢の説明にラヴィールは違和感を覚える。本当に気絶させるだけで黒い手はなくなるのか。いや、なくなるのかもしれないが、#解決__・__#するのだろうか。

 天使と悪魔の加護と精霊の加護とでは決定的に違うことがひとつある。体の同化だ。乗っ取られる、といっても過言ではない。気絶してしまえば、最悪悪魔に体を乗っ取られる危険がある。もちろん相性が良ければの話だが、どう見たって令嬢と憑いてる悪魔の相性が悪いとは考えにくい。

「気絶は得策じゃありません!」

『ならどうしたらいいの!?』

 令嬢の困惑と焦りが黒い手に伝わり、ラヴィールではなく周りの木や地面を荒らし始めた。その手が心做しか大きくなっているように見える。


(マイナスの感情が動力源なのか!?)


 もしそうなら、放っておけばどんどん手がつけられなくなるだろう。メイドがくるまでまだすこしかかる。その間できることなんて、と令嬢を見やる。

 距離があるから、視線は気づかれないはずだ。しかし目をやったその瞬間に、オルガ嬢の紫紺の瞳から逸らせなくなる。

 小さく口が動いた。


「みないで」


 かすかな吐息とともに、たしかにそう。刹那、黒い手がムクムクと巨大化していく。それだけではない。令嬢の背中にビリビリと小さな黒い雷のようなものが走ったかと思うと、バサッと蝙蝠こうもりがもっているような羽が現れた。当然大きさは蝙蝠のそれではない。おそらく飛ぼうと思えば飛べるのだろう、オルガ嬢の体をすっぽり包んでしまえそうなほどに大きな羽だ。

 そのときようやくわかった。

 令嬢は声を出すことができた。しかし出さなかったのは、悪魔に対しての「要望」だと思われてしまうからだろう。

 悪魔の加護は、ダルダンの都市では忌むべきものとされていた。おそらくオルガ嬢もそのように扱われていたのだろう。もしかしたら、家族からも恐れられているのかもしれない。それならよそよそしい態度だった説明もつく。


──それより、なぜ。


 オルガ嬢はどうしようもなくいまの状況を悲嘆している。助けを求めている。いっそ死にたいとすら思っていそうだ。

 助けたい、と思う。それは本当だ。だがそれと同等に、いまの姿の彼女を見ていたいと思ってしまう。

 真っ黒で大きな羽は、艶があってとても美しい。令嬢の金の髪と合わせてとても映える。紫紺となった瞳も美しさが損なわれていないどころか、ミステリアスな雰囲気となって惹かれてしまう。

 おかしい、とラヴィールは己の喉をギュッとつねった。途端、令嬢の周りに見えていたキラキラした輝きのようなものが薄れる。

 頭がいくぶんかスッキリした気がする。

 さて、とラヴィールは目を閉じて情報を整理する。いまの令嬢を止める方法、必要なもの。記憶の中から探っていく。

 あ、とラヴィールは目を開いた。

 以前令嬢に渡したあの耳飾りが彼女の手元にあれば、もしかしたらこの騒動を鎮めることができるかもしれない、と。

 あのときは、聖品なのかと問われて咄嗟に「知らない」と嘘をついた。そして「自分は加護を受けていない」とも。

 明かしてしまえばいいように使われてしまう。現に母親がそうだった。加護の力を命を削ってまで使い続け、消耗していった。まだ若かったのに、頬が痩けて10歳のラヴィールよりも体重が軽くなってしまった。


 母親は自分とは同じ道を辿らせまいと、息子の加護の力を隠すことにした。


「オルガ様!耳飾りは持ってますか!?」

 ラヴィールの叫び声に令嬢は戸惑いながらもうなずき返す。

 いまは保身などしていられない。

 ラヴィールは息を長く吐き出し、短く吸い込む。森の澄んだ空気のおかげだろうか、加護の力を指先まで感じることができる。


 ラヴィールは指をすっと差し出し、

「割れろ」と指を弾いた。


 合図に合わせて、耳飾りの宝飾部がパキン、と音を立てて割れる。割れ目から黄金の光が漏れ出て、令嬢を包み込んだ。

 あっという間の出来事だった。

 光がいつの間にか消え、残された令嬢は横たわっていた。羽も黒い手もない、変化前の令嬢の姿だ。

 慌てて駆け寄り呼吸を確認する。気絶しているだけのようで、表情は険しいものの脈も呼吸も安定している。ただ手には縄の跡、足は靴擦れ、背中は二本の刃で切りつけられたように破れてしまい、無傷とは言えない。

 ひとまず戻ろう、と令嬢を抱えたラヴィールの前に影が伸びた。

 お迎えがきたか、と顔を上げたラヴィールは緩みかけた頬を強ばらせる。


「そこの令嬢を、預けてもらおうか」


 そう命令してきたのはソッフィオーニではなかった。黒い制服に、濃い赤ワイン色の髪。灰色を帯びた桜色の瞳。なによりフュリスとどことなく似ている顔立ち。

「い、イーゼル・リデルト中隊長……」

 黒馬に乗って現れたのは、この別荘地と縁遠いはずのブラク騎士団中隊長殿だった。

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