不穏な空気
ベールを取った令嬢は、しばらく池の前で目を閉じていた。メイドから持たされていたシートを広げ、そこに座るよう促したのだが。
『ダンデリオンさんもどうぞ』
と言われ、二人並んで座ることになった。
シートが大きいとはいえ、距離はいつもより近くなる。
『具合悪くなったらすぐに言ってくださいね』と令嬢は念押しする。
しかしこの要望は既に五回目だ。ラヴィールは堪えきれずに、
「あの、どうしてベールや仮面を取ったら私の体調が悪くなるんですか」と訊いた。
ラヴィールの予想通り、令嬢は『それは』とつぶやいたものの言葉を詰まらせた。言えない決まりなのかもしれない、とも思ったのだが、以前メイドが「まだお話できないこと」と言っていたのを思い出す。つまり、令嬢が「言いたくない」ことなのだろう。
やはり無理に言わせるのは今後の付き合い的にも良くないかもしれない、と思い直し、ラヴィールは撤回しようと横を向いた。
『今日は、来神祭があるんです』
口が動いていないのに言葉が脳に流れてくる。ベールを取ろうがしゃべれないことに変わりはないらしい。
「……え、ライジン祭?ですか」
『神様をお迎えするんです。と言っても、ここの人たちは神様なんか見えやしないんですけどね。神様がいると仮定して、ここの遊水池を囲ってお祭りをするんです。……そのお祭りでは、毎年恒例で劇をやるんです。そこで、お話しします』
意気込む令嬢の頬は引きつり、目も狼狽を隠しきれていない。令嬢からしたら相当覚悟のいる話なのだろう。
──それを、安易に聞いてもよかったんだろうか。
令嬢の専属騎士にはなったが、未だよそよそしい関係でしかない。令嬢はまだラヴィールに命を預けることはできないだろう。
専属騎士だって他になりてが居ないから就任できたようなものだ。
『……あ、そうなるとお祭りもいかなきゃいけないのか』
令嬢は迷う素振りを見せた。進んでいきたいものではないらしい。
『いえ、なんでも……ソフィもついてくるでしょうし』
大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせるように令嬢は胸に手を当てて唱えている。眉間にしわが寄っているのにちっとも醜く見えない。
「令嬢がいつもベールをしているのは、素顔を見られたくないからですか」
穏やかな自然の空気が張り詰めていた空気を溶かしたせいなのか、それとも眠気に襲われたせいなのか、気づけばポロリと問いがこぼれていた。
その瞬間意識が覚醒し、「やってしまった」とラヴィールの顔が青ざめていく。恐怖で隣を見ることができないと思うのに、視線がついそちらへ行く。長い睫毛を伏せ、令嬢は光の灯らない目に遊水池を映していた。
『そうです。付けてさえいれば、嫌われないから』
最後の方は独り言に近かった。令嬢は口を
ちっとも幸せそうではない、とラヴィールはメイドに言った。しかしいまの令嬢を前にしたラヴィールは、そのような甘い言葉では捉えきれていなかった。
幸せそうではないどころか、幸せなど感じることのできない道を歩んできているのだ。
「……金を、持っていれば幸せだと思ってました。そして、それが間違っているとも思ってません」
ラヴィールの語りに、令嬢は耳をすませる。
遊水池の真ん中あたりに打たれている杭に一羽の長羽虫が止まり羽を休めている。赤や青、黄色の長羽虫もやってきてその場所を巡って争い始めた。
「だから、金以外の心配事がある令嬢は幸せな悩みだと信じて疑ってませんでした。それはすごく馬鹿な考えだって、いまは思います」
『わたしがお金をもってるわけじゃないわ。家から出たらなにもできない無能。嫁ぐこともできない、出来損ない。それがわたし』
仄暗い瞳はラヴィールを映してなどいない。慰めを求めているわけではなさそうだ。しかしこの容姿で貰い手がないとは考えにくい。
『害悪にしかならない存在が、わたしなの』
問う前に令嬢がつぶやいたその横顔には見覚えがあった。死にたいではなく、「消えてしまいたい」と言った彼女と同じ横顔だった。
『あ、ごめんなさい。面倒なことを言ってしまったわ……って、敬語も忘れてしまっていましたね。失礼しました』
いつの間にか敬語が取れていることに気づいた令嬢が染まった頬を隠す。その仕草は年頃の少女そのものだった。普段の大人びた雰囲気がなくなり、愛らしい少女となっている。きっとこちらが素なのだろう。
「敬語は要らないです。……オルガ様」
ふい、と目を合わさずに言う。耳先をほんのり赤く染めているラヴィールに、令嬢は嬉しそうな微笑みを返した。
『そろそろ戻りましょうか、ラヴィールくん』
「いや、その呼び方はちょっと……ラビで、お願いします」
「くん」づけがむず痒く、顔がすっぱいものを食べたときのように眉間が険しくなる。その表情がよほど面白かったのか、オルガ嬢は腹部を抑えながら肩を震わせた。
『もう……っ笑わせないでよ』
目に涙を溜めながらオルガ嬢はむくれた。その目がふとすがめられ、『ねえ』とラヴィールを呼ぶ。
『あれ……なに?』
オルガ嬢はもう笑っていなかった。どころか、顔がだんだん強ばっていく。なにごとかとオルガ嬢の視線を追う。
ラヴィールは絶句した。
遊水池のちょうど真向かいに、令嬢と同じ年頃の子どもがいた。しかし明らかに貴族ではない子どもだ。ここは貴族たちの保養地だ。平民の子どもが絶対に居ないかと言えばそのようなことはないが。
『どういうこと?』
なぜ平民の子どもがひとりで遊水池を
「声かけますか」
『えっと……うん、そうしたほうがいいよね。でも、ベールと仮面を……』
だがベールは遊水池の中だ。手元にあるのは仮面しかない。
「よかったらこれ使ってください」
羽織っていたマントを令嬢に貸す。フードが付いているタイプのため顔を隠すこともできそうだ。
『ありがとう』
と受け取りマントを被る。身長が余り変わらないため大きさもピッタリらしい。なんとなく癪だが、いまはそこに意識を割いている場合ではなさそうだ。
「本当ならここで待っていてほしいんですが、オレはここの地理がわからなくて」
申し訳ありません、と令嬢の小走りに合わせながら謝罪を口にする。オルガ嬢は軽く息を切らしながら『気にしないで』と短く返した。
そこまで時間がかからずに反対側まで辿り着いた。子どもの姿を探して二人はきょろきょろと辺りを見渡す。
「居ました」とラヴィールは令嬢から離れて子どもに駆け寄る。
「君、どうしてここに?」
話しかけると、子どもはひどく怯えた目でラヴィールを見つめ返した。
「いっいやっ!お母さんのとこに帰して!お願い!」
まるで誘拐犯を前にしたかのような反応だ。
「君はお母さんと一緒にここへ来たんじゃないの?」
ラヴィールが問うも、子どもはパニックになっているらしく「帰りたい!帰してお願い」と繰り返すばかりだ。
『……ねぇ その子にひとりできたのか聞いてみてくれない?』
令嬢の要望に小さくうなずき、
「大丈夫、ちゃんと帰すと約束するよ。だから質問に答えてくれ。君はひとりでここまできたのか?」
と子どもの目を覗き込む。子どもは茶色い瞳をなんどか瞬き、軽く首を振った。
「他の知らない子も……たくさんいたよ」
ようやく落ち着いたらしい。ほっと胸を撫で下ろしたラヴィールは「ありがとう」と子どもの頭を撫でる。
その隣で、令嬢は考え込むように右手を唇に当ててかすかにうつむいた。
『その子たちはどこにいるのか教えて。それと、その子は私のコテージに避難するよう言って』
「避難?」
令嬢の意図がわからず怪訝な顔になる。
『後で話すから、とりあえず伝えて』
緊迫した空気を感じとり、ラヴィールはおとなしく令嬢の指示に従う。
「他の子たちはどこにいる?」
「えっと、この先の小屋だよ。怖いおじさんに連れてこられたの」
誘拐か、とようやく状況を理解する。小さな指が指す方向に、たしかに小屋が見える。そこまで遠くはない距離だ。
「わかった。君はれいじょ……じゃなくて、このお姉さんについていくんだ。お姉さんは話せないけど、優しい人だから。わかったね?」
言い聞かせると、子どもは不安そうな顔をしているものの素直にうなずいた。
「よし、じゃあ──」
振り返った刹那、声を失う。
オルガ嬢のすぐ後ろに、巨体の影が差し掛かっていた。手には銃、顔には引っかかれたような傷跡。どう見たってカタギの風体ではない。
剣を抜いてしまいたかったが、間合いには令嬢も入ってしまう。なにより、銃と剣では相性が最悪だ。
「ひとりやっぱり抜けてんじゃねぇか。面倒なことしやがって」
低く威圧感のある声の男は大きくため息を
「まぁ……この状況で暴れたりはしねぇよな?」
据わった目を上目遣いにしながら言う男に、ラヴィールはおとなしく手を差し出した。満足気に縄を手にした男に、ラヴィールは「ちょっと待ってください」と声を発した。
「お嬢様には指一本触れないで頂きたい。もしそれが守られない場合──あんたを殺す」
ぎらりと男を睨みつけるラヴィールに、男は「なるほど」と動きを止めた。
「だがそれはできない相談だ。もっと金になりそうなお嬢様も捕えない誘拐犯がどこにいる?」
『ラビ、聞いて。わたしはおとなしく付いていくから、その子どもを解放してって言って』
令嬢の思念にラヴィールは目を見張る。なぜ、と言いたかったが声に出せない。
「……オ、嬢様がおとなしく付いていく条件として、子どもは解放しろ」
「どこから目線で言ってるのか……まあいい。ガキひとり逃げたくらいなんでもない」
男は舌打ちし、オルガ嬢を引っ掴んだ。痛みに首を背けた令嬢を目の当たりにしたラヴィールは「おい!」と叫んだ。
「乱雑な扱いをするな!令嬢は体が弱いんだ!もし怪我のひとつでもあったときは容赦しないからな」
剣に手をかけるラヴィールに、「キャンキャンうるせぇなぁ!」と男が怒鳴る。
「惨めだなぁ、騎士様に見捨てられた主ってのは……わかってるだろうが、てめぇもこいよ」
男はラヴィールに命じるなり、令嬢の腕を引きながら小屋の方へと向かっていく。人質に取られてしまってはラヴィールにはどうすることもできない。
ラヴィールは下唇を噛み、無力さを呪いながら男の後を追った。
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