森を抜けて

 朝食を終え、いよいよ令嬢と二人での散策の時間となってしまった。思念を受け取ることはできるものの、やはり表情が見えないとなにを考えているのかわからない。

『それじゃ、いきましょうか』

 黒い日傘を手にした令嬢が言う。いつもの如く黒に包まれている出で立ちがなにを意味しているのかはわからないが、ひとつだけ言えるとするならば「怪しい」ということだ。

「あの、失礼だったら本当に申し訳ないのですが……服が黒なのは、なにか意味があるのですか?」

 おずおず訊ねると、令嬢は『はい』と首肯した。

『こういう服を着ていると、人があまり話しかけてこないので』

 そういう理由か、と納得する。たしかに、だれかに話しかけられたとして令嬢の「声」は聞こえない。それなら近寄らせない方が相手もしなくて済むし、これはこれで良い方法なのかもしれない。

「それで、どこへ行くんです?」

 剣が鞘に収まっていることを確認し、令嬢のすぐ後ろに付く。

『近くに遊水池があるんです。そこに行こうと思います』

 と告げた令嬢は歩きだした。小さな歩幅とゆったりした速度に、ラヴィールはつい追い抜いてしまいそうになる。

 令嬢は、決して背が低いわけではない。たしか歳はラヴィールよりも二つほど上だったはずだ。けれどお姉さんという感じはあまりしない。背筋は伸びているし言葉遣いも丁寧だ。けれど同年代の女子とどこか違う。平民の女子と令嬢を比べることがそもそも失礼かもしれないが。


(……あ、すごく存在が薄いのか)


 これこそ失礼かもしれない。だが、令嬢は「あえて」存在を薄くしようとしている気がする。自分が消えてもだれもなにも思わないように振舞っている、と言った方が正確かもしれない。

 背筋は伸びているのに心は縮こまっているかのようだ、と令嬢を見やる。ベールで隠れている髪も、きっと貴族として誇れるような美しいブロンドなのだろう。隠すようなものではないのになぜ隠すのか。その理由を聞いても良いものか、と悩んだ挙句、結局なにも聞かずに黙ってしまう。


『着きました』


 令嬢の告知で我に返る。黙々歩き続けた結果、いつの間にか目的地に到着していたようだ。

 目の前には溜め池があった。水位は低く、お世辞にもあまり綺麗とは言えない。なぜこの池にきたのだろうか、と思ってしまう。

『この遊水池は、大雨が降ったとき必要になる施設なんです。とくにここの辺りは川が二つあって、氾濫しやすいので』

 と令嬢は池に近づく。

 森林を抜けたその瞬間、待ち構えていたかのように風が強く吹いた。

『え?』

 傘が風を受け、令嬢の体が池へ引っ張られた。ほんの一歩分飛ばされただけだ。しかしブーツが泥濘ぬかるみを踏み、ずるりと足を滑らせた。

 身体が傾き、吸い寄せられるように池に落ちていく。


──落ちる!!


 意識と運動神経とが結びついた刹那、伸ばした手が令嬢の手首を掴んだ。細く弱々しい感触に怯みつつも、その手をぐっと引く。足の力がかくりと抜けて、二人して地面にへたり込んでしまった。

 傘は池の上にパサリと落ち、ゆったりとした風に流されていく。

 たいして動いてないのに呼吸が乱れて落ち着かない。一気に張り詰めた緊張から解放され、脳がこんがらがって心臓がバクバク鳴る。

 令嬢は、と顔を上げて息を呑んだ。

 ベールが傘に絡まって取れたらしく、透き通るようなブロンドの長髪があらわになっていた。それだけではない。地面にはベールの下に付けていたのだろう仮面まで落ちて、令嬢の素顔がさらされていた。

 そのことに気づいていないのか、令嬢はふっと顔を上げた。丸みを帯びた鮮やかな青緑の瞳がまっすぐに向けられる。

「え、……どこが皮膚がただれ──」

 無意識に開いた口を慌てて塞ぐ。あれはメイドの例えだと思い出す。だがそれにしたって、ふつうは「隠さなければならないほど醜悪な顔」だと思うではないか。

『え……あっ!』

 令嬢は素顔が隠れていないとようやく気づいたらしい。慌てて落ちた仮面を拾い付け直そうとするも、その手が震えてなかなか付けられそうにない。

「どうして仮面を付ける必要があるんです?」

 令嬢はびくりと肩を揺らし、目をサッと逸らす。言いたくない、あるいはそう簡単に言える話ではないのかもしれない。

「いや、言いたくないなら別に平気です。けど、……その、私と二人だけでも、外せないんですか?別に令嬢の顔が超美麗だからずっと見ていたいとかそういう理由じゃなくて、仮面とかベールって視界悪いじゃないですか」

 と提案する。令嬢は目を瞬き、薄い唇を「でも」と言いたげに動かす。

『……付けなきゃいけない理由が、あるんです』

 苦しげに吐いた令嬢に、ラヴィールは「わかりました」と出しゃばった物言いを後悔しているかのようで、遠慮がちに首肯した。

『けど、あの……なんとも、ないんですか?』

 この質問には覚えがある。

 令嬢ではない人物からの問いではあったが、まさか似たようなことを聞かれるとは。

「なんともありませんが」

 と答えると、令嬢は目を見開いた。「なんともない」ことがおかしいらしい。しかしなにがどうおかしいのかわからないラヴィールは、ただ令嬢の反応を観察することしかできない。

 令嬢は『あの』と仮面を胸に抱きながら、上目遣いにラヴィールを見つめる。言いづらいらしく、なかなか言葉が出てこない。

『あの……本当に、なにもないんですか?体が重いとか、頭がぼーっとするとか……』

「ありません」

 なぜベールや仮面をとったら関係ないはずのラヴィールがそのような症状に悩まされるというのか。

 不審を顔に表すラヴィールに、令嬢は『あの、疑っているとかじゃなくて』と弁解する。

 ちら、と窺うようにもう一度ラヴィールを見つめ、

『本当に、取っててもいいんですか?』と訊いた。

 微かな期待と大きな不安‪が見え隠れする声だった。ラヴィールは「大丈夫ですよ」と安心させるような優しい声音で応じる。

 令嬢はじわりと瞳を滲ませた。普段の生活で抑えてきた怒りや苦しみ、悲しみが一気に溢れたのかもしれない。

 そんな生活を強いる貴族の家は、たしかに「ちゃちな不満」として片付けてはいけない事情とやらがあるのかもしれない。上司に投げた言葉を、ラヴィールはすこしだけ後悔した。

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