ある種の嫉妬
「触るな!」
救護室からは獰猛な声が閑静な廊下にも響く。
救護室まで抱えられた少年は、自分の置かれた状況をやっと整理できたらしい。壁を背にした少年は唸り声をあげながらソッフィオーニを睨みつける。
「なんてことしてくれたんだ!ひょろひょろ女に抱えられるなんて……っ」
「令息のお怪我が深刻だったからです。でなければ私もこのような手段は用いません」
肋骨を圧迫固定するためのコルセットを手にしながら、ソッフィオーニはため息をつく。
「危害は加えませんから、大人しくしていてください。これをギュッ!と巻くだけですから」
「おまえみたいな筋肉ゴリラのギュッ!を受けたら死ぬわ!」
勢いはあるものの、そのせいで噎せて肋骨を抑える羽目になっている。このままでは悪化する一方だ。
どうしたものか、とメイドは頭を悩ませる。今のところ、「強制的に眠らせてコルセットを巻く」解決策しか思いつかない。
──……もう、そうしようかな。
と手刀を構えたソッフィオーニだったが。
ぼふんっと音がしたかと思うと、少年の姿はなくなっていた。あの怪我で逃げ出すことができるのか、と目を見張る。が、その答えは「否」だった。
少年の姿かたちは失われたものの、艶やかな黄金の毛とオレンジの瞳、なにより敵対心剥き出しのその表情が同一人物だった。
ベッドの上で「ふしゃーっ」と唸りながら威嚇しているのは、猫のような猫ではないような。耳は丸く、しかし犬ではない生物。
「獣人……?」
かつて魔女に召喚された、人間界に存在しない獣たち。それらの大多数は消されたが、いくばくかは現世に血を残していると囁かれた。しかしその血は次第に薄まり、今ではもう獣の姿になる者はいないとされている──はずだったのだが。
どうやら噂は真実ではなかったようだ。
(ということは、他にも似たような人たちがいると考えた方が良さそうだ)
他にも獣人がいることがなぜ問題になるのか。単純な話としては人身売買が復活していることがほぼ確実であり、もっと言えば他国の戦力がわからなくなった。
人身売買は戦争の終わった現在ではご法度だ。しかし儲けるうえに商売として成り立っていたため、完全な撤廃が難しいのが現状なのだ。またそこに一部の貴族が関与していることがいっそう事を面倒にしている。
ちなみに獣人は普通の人間よりも力が強く、運動能力、感覚器官が優れているとされている。そのため戦争の駒として使われたり、労働力としたり、見世物になったり。どの道獣になろうがなるまいが「ルーツを辿れば獣人」ならば丁重な扱いを受けることは期待できない。
『どうしよう、ソフィ』
主に呼ばれ我に返る。声を震わせる令嬢はソッフィオーニを見上げていた。主は初めて動物を見たのだ。恐れを抱くのは当然だろう。
ソッフィオーニは微笑みながら、
「大丈夫ですよ、おじょ──」
『こんなにも愛らしい子がこの世に存在していたなんて!』
出かけた慰めの言葉が行き場を失う。
興奮気味の主を未だかつて見たことがなかった。あの炭酸ジュースを作ったときですら、ここまでの高揚はなかった。
お嬢様が感情豊かなのは良い事だ。良い事だが、おもしろくない。あのフワフワの毛並み以外取り柄がないだろうに、それだけの武器でいとも容易くお嬢様の御心を射止めたのが気に食わない。
『ひとまず、治療をしましょう。医者には見せないほうがいいかしら』
「……というよりも、必要がないかと」
獣人に視線を移すと、
『ふん!俺は生まれてから一度も医者の世話になったことはないね!この程度の傷、なんてことない』
と言った。
(……言った?誰が?)
思わず獣人を二度見する。なぜ会話が成立しているのだ。彼が獣で喋るはずがないということもそうだが、それ以前に令嬢の声が聞こえていないと会話は成り立たない。
「令息は、お嬢様の声が聞こえるのですか」
『思念飛ばしてんだから、そりゃ聞こえるだろ。つっても、人間とは音域が違うから、人間の姿をしてるときはまったく聞こえなかったけどな』
思念を飛ばすと簡単そうに言うが、実際はだれでもできるわけじゃない。生まれもっての性質で思念を飛ばせる獣人と、天使の加護、あるいは悪魔の呪いを受けた素質ある者の特権なのだ。
それを知ってか知らずか、得意げに鼻を鳴らす獣人が憎たらしい。
一方、思念を受け取れるのは相性の良い者だけだ。なんの加護がなくとも、相性さえ良ければ思念を詠むことができる。しかし相性の良い者と巡り合うのはなかなか困難なのだ。
「というか、あなた本当に令息ですか?すくなくとも育ちは貴族ではありませんよね」
ソッフィオーニの鋭い視線に、獣人は『はん!』と鼻を鳴らす。
『私生児だってさ。俺は主役を貶してこいって指示を受けたんだ。そしたら薬代をやるって言われたから従っただけだ』
『薬代……?』
心優しき令嬢は彼の行動の背景が気になったようだ。しかしメイドは違った。
「貶してこい、ですって……?」
怒気が込められた呟きに獣人の毛がぶわっと逆立つ。見つめられたら凍りつきそうな瞳で、ソッフィオーニは小さくため息をついた。
「どうやらあなたのお父上はご自分の立場を勘違いなさっているようですね」
カツカツと獣人の前に歩み寄ったメイドは、変わらぬ姿勢で「あなたもですよ」と続ける。
「あなたがもし、故意的にお嬢様のことを貶めるようなことをしていたと発覚したら、足や腕が使い物にならないほど痛めつけられていてもおかしくはなかったのですよ。私生児で、しかも育ちが平民だったのなら尚更。指示されたと言いましたね?その証拠はありますか?ないのなら、あなたが貴族を貶したとして重罪に処されるのですよ」
令嬢には聞こえないよう潜められた声に、獣人はびくりと体を固くした。ようやく事の大きさがわかったらしい。
「それを、お嬢様はよくわかっていらっしゃった。だからあなたを匿うことにしたのです。家に帰ったところで、良い待遇が待っていることは万が一にも有り得ませんし」
『匿うって……』
戸惑いが唸りに表れる。ソッフィオーニは不本意そうに半目になりながら、
「あなたの安全が確保できるまでです。それまでは傷の療養と、治り次第屋敷の業務を行ってもらいます」と言った。
主を振り返り、「その手筈でよろしいですか?」と尋ねる。令嬢は小さくうなずき、明るい声音で『よろしくね』と言った。
まだ信頼できない獣人に心を開きすぎているとも見れるが、笑顔になる頻度が増えるなら良い結果だろう。
(裏切ったらそのときは、相応の制裁を加えるだけだ)
ソッフィオーニの冷えた微笑に、獣人は何度目かの寒気に襲われた。
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