自己中心的メイドの改心

 なぜビビがあんなにもしおらしくなったのか、時は少しだけ遡る。


 これは夫人から注意をされたその日のこと。


「お風呂の支度をします。ビビ、手伝ってください」


 そう指示されたのは、日が傾き、空が赤く色づき始めた時刻。

 ビビは言われた通り、浴室を洗い、湯を沸かしていた。


 上から物を言うようになった例のメイド。今だって、どうして下級の者から、しかも「黒髪の人間」から指図を受けなければならないのか、と内心はイライラが蓄積していた。だがその女に温情をかけられたことも事実で、それがまた癪に障る。


(こんなもんでいいでしょ)


 真っ白なバスを見下ろし、ビビはため息混じりに溜まっていく湯を眺める。

 なぜ貴族である自分が、自分より幼い──ビビは主より一歳だけ年上なのだ──子どもの面倒を見なければならないのか。オルガ嬢に仕えることが決まってから、ずっと不服でならなかった。


(私はただ、自分が貴族の令嬢として受けるはずだった待遇を望んだだけなのに)


 なぜあのお嬢様のように優雅なティータイムを送ることすら許されないのか。

 家格はそこまで低くない。ただビビは三女だった。上には優秀な姉二人が居て、一人は結婚して家を出て、もう一人も既に婚約が決まっている。次女のほうが婿を取り、家を継ぐようだ。

 だから必然的に、ビビも嫁にいくはずだったのだ。けれど──、


「アランジュ家のメイドの枠が空いているようだ。ビビ、お前はそこでお嬢様の世話をするんだ。そしてうまく取り入って、バレッタ家を大きくする手伝いをしなさい。これはお前にしかできない仕事だ」


 父親にそう言われ、ビビは「私はお嫁にいかないの?」と疑問を返した。

「行くさ。お嬢様をうまく使えたら、ビビは姉さんたちよりずっと良い人と巡り会える。だからうまくやるんだよ。お前は要領もいいし顔もいいから、絶対にうまくいく。期待しているよ」とビビの頭を撫でた。


──でも父様。私こんな生活望んでいなかったのよ。


 まるでどこぞの姫のように甘々に育てられたビビからすれば、人に仕える仕事は苦行以外のなにものでもない。わかっていた。しかし大好きな父のため、母のため、彼女は「任せて」と家を出たのだ。


 だが当然、従業員としての作法などを学んでいなかった彼女は仕事の大半を分かっていなかった。当初彼女がした事といえば、軽い掃除── 掃除の仕方も知らないから整理整頓、といった掃除とも呼べないものだ──と調理の運搬。それだけだった。

 主を風呂にいれることもなければ、髪をかすこともしない。衣服選びも他のメイドの仕事をすることもなかった。それでも他のメイドが夫人に密告しなかったのは、家の力があったからだ。だからいきなりオルガ嬢の専属メイドとなってしまい、このような結果になってしまった。


「準備できましたか?」


 唐突に声をかけられ肩が跳ねる。

 このメイド、本当に気配がない。


「はい、終わってます」

 すまし顔で頷いたビビだったが、ソッフィオーニはわずかに眉を寄せ、

「……いいえ、まだのようですね。ビビ、掃除は浴槽だけでなく床の掃除も含まれるのですよ。あとタオルも敷かないと冷たいでしょう」

 と新たに指示を出した。


──それならそうと最初から言いなさいよ。


 折角準備をしても文句を言われるなら、やる気が削がれるというものだ。

 それを顔に出す若輩メイドに、ソッフィオーニは「ビビ」と声をかけた。

「あなた、どうして専属メイドになったのです?」

「……えっと」

女中長から任命されたから、という答えを求めているわけではないことはさすがにわかった。とはいえ流石に企みを口に出すわけにはいかない。

 口ごもるビビに、

「お父様に勧められたのですか?」とソッフィオーニは直球に投げかける。

「えっいやっ……自分で、やりたいなって」

 図星を突かれたビビは咄嗟に嘘をつく。

「何をやりたいと思ったのですか?」

「えっと……お世話、を」

「でもやりたかったはずの仕事を、あなたはしていなかったじゃありませんか。嘘なんでしょう」

 逃げ道を塞がれ、ビビは押し黙る。

「私があなたをこの屋敷に残したのは、あなたがお嬢様にした仕打ちがどれほど惨忍なものだったのかを自覚してもらいたかったからという理由もあるのです」

 惨忍だなんて大袈裟な、とメイドの酷い物言いにビビは顔をカッと赤く染めた。

「貴族の中には、自分が何よりも特別な存在だと勘違いしている阿呆がいます。ですが貴族とは本来、持っている権力で領民の生活を守る義務があるの。私腹を肥すため、自分だけが幸せになるために自国民から金銭や物、権利を取り立てるなんてもっての外──あなたにはその心構えがありますか?自分の衣服、食事が領民の働きによるものだという自覚はありますか」

 ソッフィオーニの射るような鋭い目に、ビビはぐっと唇を引き結ぶ。


(そんなの知らないわよ。私はただ、可愛く着飾っていればそれでいいって言われてたもの。私の仕事は可愛く、優雅に振る舞うことで──)


 服の裾をぎゅっと掴み、俯いた彼女は唇を噛む。

「……晩餐まであまり時間がありませんね。床掃除はこの布を濡らして使って、最後は拭きあげてからマットを敷いてください」

 と、手際よくソッフィオーニは仕上げていく。

「お嬢様をお連れします。着替えとタオルを持って控えててください」

 ソッフィオーニはそう言い残し、浴室を一旦出ていった。

 ビビが渋々指示に従い着替えとタオルを手に戻ってきた時には、既にオルガ嬢とメイドが浴室に戻っていた。

 オルガ嬢の着替えを手伝う光景を眺めていたビビは、自分の目を疑った。


 骨と皮しかないように見えるオルガ嬢の身体。細い、というよりはけていると言った方が正しいだろう。

 いつできたのか分からない青アザが痛々しく残り、髪の艶なんてない。


(なにこれ。こんな状態になってるだなんて聞いてない)


 ちょっと食事を抜くぐらい平気だと思っていた。自分の食事があまりにも質素で、なぜこんな待遇を受けなければならないのかと憤った彼女は、主がうまく主張できないことを利用し、主の食事を減らして自分の胃に収めた。

 それに女中長がお仕置だからと鞭を取り出していたことも大したことなどないと。わからず屋のお嬢様を教育することに必要なことなのだと。

 鞭で打たれたらどれほどの痛みと傷が残るかなどちっとも考えていなかった。


 だけど誰も止めなかった。教えてくれなかった。良いことと悪いことが、貴族の肩書きを振りかざして育った齢11の彼女にはわからなかった。


「お嬢様、お湯加減は大丈夫ですか?」

「はい 丁度いいで……丁度いいわ」


 小さな声は結局聞こえないままだが、明らかに専属メイドに対して心を開きかけているのは表情からわかる。

 ビビに対しては、当初は怯えるか、悲しい顔をしていた。だがいつからか、無表情になる日が増えていった。無表情になるにつれ、主は部屋に閉じこもるようになり、これ幸いとビビは鍵を管理した。


(全部、自分が楽をするためにやったことで、でもあの子──オルガ嬢を殺すところだったかもしれないんだ)


 このメイドが来ていなければ、もしかしたら倒れたお嬢様が発見されていたかもしれない。そうなるとビビは解雇では済まされない。家の没落のきっかけとなっていてもおかしくはないし、さらにいえば命がなくなってもおかしくない。


 血の気の引く音がした。

 視界の端が黒ずみ、足元がぐらぐら揺れているかのように覚束無い。


「今宵は森の香りのするアロマを焚きましょう。きっと眠りが深くなりますよ」


 ソッフィオーニの声に意識が引き戻される。

 髪を洗い終えていたところにバスタオルを差し出すと、ソッフィオーニは軽く目を見張り、

「良いタイミングね。やればできるじゃない」

 と目尻を下げた。

 キツい表情が緩くなり、柔らかな雰囲気に包まれる。けれどそれは一瞬の出来事で、気づけば元の近寄り難い雰囲気に戻っていた。


「あの ソッフィオーニ、さん……ご指導、よろしくお願いします」


 背中を向けているソッフィオーニに告げると、彼女は肩越しに振り返り、

「ええ 今のあなたなら、きっと望む人生を歩むことができます」

 と口元に笑みを宿しながら言った。


 やがて彼女の言葉は予言となり、ビビは貴族の暮らしに戻るわけだが──それは、まだ先の話。

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