06 聖龍湖オペル
「これは海。
──にしか見えないな」
ストルフォーク港に到着し、桟橋から初めてオペル湖を見たエイスからそう声が漏れた。
これは非常に稀なこと。
超高次元の並列思考脳力を待つエイスは、情動神経回路から直接的な影響を受けにくくなった。彼ほど脳力が高くなると、感情の起伏は抑制され、人間とは比較にならないほど理性的になる。
そのエイスでさえも眼前の光景には少なからず心を動かされた。
いつも騒々しいアルスに至ってはその気配まで消えていた。
視界には、遠くまで澄み切った空と水平線が映るのみ。
対岸は遥か遠い先。見えるわけもなかった。
湖もここまでの規模になると、湖面だけを見ていると、海にしか見えない。
ただ、湖水は美しく澄んだ緑青色で、潮の香りもしない。
風の香りからは微かなミネラルと深緑が感じられた。
(間違いなく淡水湖だ)
エイスは転生前に琵琶湖を見たこともあったが、その記憶があるわけではない。
ただ、たとえ記憶があったとしても、二つの湖をオーバーラップさせることはないだろう。
二つの湖はそれほどに違っている。
エイスは桟橋からしばらく湖面を見つめていた。
エンリカとヨニュマの二人も傍で同様に湖を見つめた。
そこにゆっくりと下船してきたヨルグ一行が現れ、エイスたちのその様子に気づき、少し呆れている。
ヨルグは年に最低三回はストルフォーク港で乗り換える。
彼からは三人が単なる旅行者にしか見えなかった。
いつも冷静なエイスにはあまり似つかわしくない姿だ。
その意外な一面を見て、ヨルグはクスリと笑ってしまう。
ヨルグらが湖を見つめながらボーッとするエイスたちにそろそろ声をかけようかと思ったところだった。
それより先にエイスに声をかける二人組が現れた。
黒豹人の二人だ。
この二人がエイスたちをいじらないわけがなかった。
湖を眺めるエイスらに近づき、湖面を指差しながらなにやら話しかけた。
直後にエイスらと一緒に五人で爆笑する
──それはいつもの見慣れた光景。
黒豹人の二人もここで下船し、数日ほど休息するとのこと。
その後に、今度はここからべノン行きの航路便の乗務になるそうだ。
結局、三人、二人、四人の計九人で話しながら、改札を出た。
ヨルグたちは夕方発のファミル行きの帆船に乗る。
それまでは知人の店を訪ねて、商談を進めるらしい。
ファミルにも店があるらしく、そこに三泊してからインバルに向かうとのこと。
エイスたちは今晩この町に泊まり、翌日午前発のミシリアン島行きの帆船に乗る。
ここストルフォークからでもミシリアン島へは帆船でほぼ丸二日かかる。
広大なオペル湖の中央に浮かぶ島へ向かうだけに、最低でも船中で二泊することになる。
ヨルグたちとはここでお別れだ。
とは言っても、ヨルグはエンリカとヨニュマと既に話し、インバルで二人に会う約束をしている。
インバルでのエイスの居場所は二人から教えてもらうことになっている。
無論、三人はエイスにその事を伝えていない。
エイスたちは馬車でストルフォークの街中に向かい、島行きの切符を購入した。
エンリカとヨニュマはエイスに特別船室を用意しようとしたが、彼はそれを丁重にお断りした。
頑丈な龍人なら雑魚寝でも特に困らない。
だが、荷物もあるため、彼は一般個室に入った。
そして、その隣室がエンリカとヨニュマの二人の部屋になった。
結局、ストルフォークの街中を散策したのはわずか二時間ほど。
その後にホテルに入り、久しぶりにエイスらは三人で夕食をとり、早めに就寝した。
*
船が出港してから一時間後、エイスが船上デッキに現れた。
船からの景色を見ようと、他の乗客もデッキに出てきている。
地球的な観点だと、オペル湖周辺の雰囲気はイタリアのガルダ湖に近い。
とは言っても、単に港や建造物等の見えるエリアの雰囲気がガルダ湖に似ているだけだ。オペル湖の方が圧倒的に大きく、水深も深い。
地理的にも、大陸南部に位置し、標高もガルダ湖ほど高くはない。
その水温はガルダ湖より10度以上も高い。
湖周辺の居住可能エリアは限定されている。
竜族の生息・活動地域への一般人の立ち入りは禁止。
漁業も厳しく規制されている。
船の航路も水竜生息域から十分な距離がおかれている。
*
現在の船速は6ノット強。
エイスは風を受けながら、広範囲俯瞰視をさらに拡げてみる。
だが、陸地を捉えることはできない。
出港して一時間ほどだが、既に広範囲俯瞰視の圏外にいるようだ。
彼は何とか陸地を捉えようと俯瞰視の発動法を工夫してみるが、陸地を捉えることはできなかった。
二十分ほど試行錯誤してみたが、7km超くらいの距離までが限界だった。
(これは別の術を開発しないといけなさそうだな。
──それにしてもどの船も
湖水上ではどの船もほぼ10分間隔で守人がビュラを発している。
ビュラをレーダーやビーコンのように用いて、航行の安全を確保している。
守人は船舶にも欠かせない存在だ。
(おっ!? これは……小型の竜か?)
エイスは拡大した広範囲俯瞰視の端に小型の飛翔体を捉えた。
大きさは全長15m級。
数分後には別の飛翔体を捉えた。
今度は全長12m級。
『アルス、オペル湖周辺にはやはりかなりの数の竜がいるようだな』
『そりゃーそうだろう。
竜族だけでなく、普通の翼竜(恐竜種)もいるからな』
『翼竜かぁ……。
飼いならせば乗れるみたいだが、乗り心地はどんなんだ?』
『なにを言ってるんだ。
乗り心地が良いわけがないさ
──速いけどな』
その話ぶりから、アルスはあまり乗りたくはないようだった。
トラブルが起こり、翼竜が落ちたり、落下すれば、龍人族でも死ぬことがある。
高高度から落下した時に受ける衝撃は聖龍腕輪の防御力を超えることがある。
その他の種族なら……、死亡確率どころの話ではない。即死だ。
そんな話をしながら、エイスは俯瞰視を通常モードに戻し、しばらく湖を眺めた。
途中からアルスの気配が変わったからだ。
エイスには、彼が船から見える景色に見惚れているように感じられた。
しばらくすると陸地はどこにも見えなくなった。
アルスは海で船に乗ったこともあるが、陸地が完全に視界から消えるのは初めての経験だった。オペル湖内には島が少ないこともあり、船が静寂の大海を進んでいるような感覚に陥る。
結局、エイスはアルスのために昼食時刻までずっとデッキから湖を見ていた。
途中で二組の女性客から話しかけられたが、ご挨拶程度の話だけにしてもらった。
*
食事はもちろん船内のレストランでとる。
だが、メニューの選択肢が少ない。
料理の質と味は……ごくごく普通。
帆船の揺れでもこぼれたりしない類の料理なのが、その普通な味の理由だ。
挽肉とジャガイモの入ったオムレツに魚のフライ。それにパン。
スープも付いたが、こぼれないように蓋がされている。蓋の上から麦わら天然素材のストローを差し込んで飲む。
湖とはいっても、帆船は風を推進力にしているだけに、そこそこ揺れる。
地球の大型船舶のような揺れを抑える電子制御のフィンスタビライザーは装備されていない。
揺れる時は結構揺れる。
エイスが食事時に気づいたのは、人族と他の種族の内臓器官の違いだ。
船酔いするのは人族だけ。
船酔いしやすい人族の多くは、船内では飲み物だけで過ごすらしい。
そのせいか、レストランで人族が食事をしている姿をほとんど見かけなかった。
他の種族の乗客は、普通に食べ、お酒も口にしている。
*
一日目の夕食を終え、エイスたちは部屋に戻った。
船が島に到着するのは翌々日の朝の予定だ。
一般客室は部屋も狭く、シャワーなども設置されていない。
それでも、水は使えるので、濡れタオルで体を拭くくらいのことはできた。
エイスはベッドの上に転がり、少し本を読んでいたが、次第に眠くなってきた。
うとうととしていたエイスが突然勢いよく体を起こした。
──広範囲俯瞰視が巨大な飛翔体を捉えた。
この夜、彼の広範囲俯瞰視は接近する小型竜を何度か捉えたが、そのいずれも危険視するような状況ではなかった。
ところが、この時は違った。
上り航路で遭遇した炎竜とは比較にならないほどの大型飛竜が接近していた。
その竜は、何と全長が……115m級‼
それは、おそらく立ち姿勢でも70m級の巨大竜。
富士フイルム西麻布ビル級の大きさだ。
この船にかなり接近しそうな飛行線を描いている。
眠気の吹き飛んだエイスは上着をはおり、佩刀もせずにデッキへと向かった。
船のデッキに出たエイスはその巨大竜の姿を最も見やすそうな場所へ向かった。
竜は左後方から斜めに接近してきている。
彼はせり上がった船尾楼付近へと移動した。
その巨大竜が2.5kmほどの距離まで接近した。
すると、驚いたことにその巨大竜は少し高度を上げながらも、速度を落とした。
驚異的な夜間視力を持つエイスはその飛竜の姿を視界に捉えた。
目視と広範囲3D俯瞰視を合わせて、飛竜の全体像を捉える。
それは信じ難い大きさ。
──二本の長い髭付きの高層ビルが飛んでいるようなもの。
まだ距離はあるものの、その大きさと羽ばたきの迫力にエイスは感動した。
炎竜とは異なり、翼に手腕はない。
鳥のような翼の使い方だ。
(なんだ……?
羽ばたきを抑えた飛び方に変わった。
えっ!? これは……まさか……)
そう、そのエイスの推察は当たっていた。
その巨大竜は前方に大型帆船を見つけて、船への風の影響を抑えようとしている。
それに加えて、少し進路も変え、船の後方を抜けようとしてくれている。
竜は悠々と飛びながらも、船の航行に配慮してくれているのだ。
エイスはその飛竜の行動に驚かされた。
この時、デッキに他の乗客が一人現れた。
もちろん、エイスはそれに気づいたが、特に邪魔にはならないため、無視した。
エイスはその飛竜の観察に集中する。
超大型の飛竜だが、エイスはその身体構造を解析して驚いた。
その巨体に全く相応しくない重量なのだ。
骨と外皮は異次元レベルに軽量でありながら、驚異的な硬度を持つ。
先日遭遇した炎竜もそうだが、竜族は質量的に非常に高次元の生物だ。
まぁ、そうでなければ全長115m級もの竜が自由に空を飛べるわけがない。
竜が後方上空を通過してから、エイスは竜の後ろ姿も観察しようと、今度はデッキの反対へと移動する。
すると、先ほど現れた乗客が船尾楼の梁上に跪いて祈りを捧げている。
エイスがその乗客に視線を向けると、不思議なことにその体が仄かに輝きだした。
(さっき一人で現れた女性だ!
あの感じは
いや!?
──これはハーフだな。
彼女にもあの飛竜が見えている、ということか)
その女性はエイスに近い次元の夜目を持つようだ。
一般的には、
(──なんだ?
彼女が
あのオーラにはなんとなく懐かしさを感じる)
エイスはその祈りを捧げる女性について瞬間的にそう感じた。
とは言っても、別にその女性を解析しようとしたわけではない。
一人だけ特別なオーラを放つ彼女に注目しただけのこと。
エイスはそこでその女性の観察を止め、場所を移動し、すぐに飛竜の観察と分析を再開した。
それから間もなく、飛竜は速度を上げ、あっという間に視界から消えていった。
その姿を見送ったエイスの脳内では、猛速でその飛竜の解析が行われる。
翼の形状と構造、強度、柔軟性等の情報を基にして、その巨体と重量、そしてその飛行の謎を解いていく。
エイスがその解析作業を進めていると、右横から声をかけてくる者がいた。
「大変失礼ではございますが、お話させていただいてもよろしいでしょうか」
その声の主は先ほどの
エイスは並行的に解析作業を進めながら、その女性の方を向く。
その女性は振り向いたエイスを見て、そのあまりの美しさに一瞬固まってしまう。
「きみにも見えていたようだな」
エイスの方はと言うと、そう応じながらも、意識は彼女の容姿をスルーしていた。
彼がこれまで会った守人女性の中でも間違いなく断トツの美女であるにもかかわらずだ。
これに焦ったのはアルスだ。
(お、おい、エイス‼
目の前にすごい美女がいるのに、な、なんだよ……その反応は。
驚くとか、感想とか、なにかないのかよ?
──こいつ、……これは困った状態だな)
最近のエイスは日々この傾向が強まっている。
アルスもこの点について心配し始めていた。
実は、エイスはそれよりも彼女の
気になるのはそこかい!──思わず、そうツッコミを入れたくなる。
それはおそらく彼でなければ気づかないものなのだが──。
(耳介形状は守人族だが……。
内部の耳介軟骨の骨質が少し龍人的だ。
これまで見たことがないし、これは珍しいのかな……。
オーラにも龍人的な気配が濃く含まれている。
それにしても──)
先ほどのエイスの認識は正しかった。
この女性は間違いなく
ただ、
加えて、
(これは……守人なのに
ただし、エイスであっても瞬間的に識別ができるのはここまでだ。
「あ、あ……、はい。
私はデュカリオ様が今宵対岸に向かわれることを知っておりました。
それで一時間ほど前から下でお待ちしておりました」
どうやら彼女の
船の後方を飛んでいった巨大な飛竜の名はデュカリオ。
大陸最大の飛竜。
史実を遡ると、三十世紀以上も前からその名を確認できる。
龍語と守人語を話し、高い知性も待つとされる。
オペル湖三神龍の一角にして、最強の飛竜とも噂される。
「夜目も相当利くみたいだな」
「はい。
あなた様もやはり見えておられましたか。
私よりも早くデュカリオ様にお気づきになられていたようでしたので……」
「デュカリオとはあの飛竜の名なのか?」
「ええっ!?
ご存じではなくて、デュカリオ様にお気づきになられたのでございますか」
それを聞いて、彼女は猛速でこの状況の分析を始めた。
この女性も龍人の血を色濃く受け継ぐ者。
四つの完全並列同時思考の脳力をフル回転させる。
ただ、エイスの能力偽装はなかなかに巧妙。
第一、わざわざ長耳の偽装をする者などは普通いない。
エイスの偽装はオーラにまで及ぶだけに、そう簡単には看破できない。
「これは
大変ご無礼をいたしました」
彼女の解析結果は、「=
採点すれば、70点といったところだろう。
自らの探索能力との差、そして身体的な特徴等からそう判断したようだ。
彼女がエンリカ、ヨニュマ、ヨルグよりも高次元の脳力を持つことは明らかだ。
守人ではあるものの、肉体的には龍人に近いため、
しかも、
もちろん、エイスのような広範囲俯瞰視を使えるわけではない。
それでも
エイスは
むしろそう判断したこの女性の分析を評価した。
守人耳を偽装していなければ、間違いなく(半)
エイスはしばらくそこでその女性と立ち話をしたが、夜も更けてきた。
大型飛竜が去ったこともあり、エイスは部屋に戻ることにした。
二人は互いに名前だけを告げて、デッキを後にした。
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