第六章
01 上級盾と困惑
ゴードウィクを出港してからしばらくすると、空には薄曇が広がりだした。
エイスの天気予測ではこのまま薄曇りが夕方まで続く。
それでも、船の航行に影響するような風が吹くことはないようだ。
ゴードウィクからストルフォークの間は、ここまでとは逆に上りの航路。
上りとは言っても、流れは非常に緩やか。
二頭のジャビュルでも余裕で牽引できている。
微風の中、船は順調に進んでいく。
*
町から遠ざかるつれて、いつもの見慣れた川沿いの景色が戻ってきた。
(ゴードウィクには実質三日いただけなんだが……。
しばらくは静かに過ごしたいな)
エイスにしては珍しく、そんな人間的な思いが浮かんだ。
それは人間だった当時に対する懐旧なのかもしれない。
──今のエイスは、人間の記憶と感情をわずかに残す龍人。
想定外の事件に巻き込まれ、エイスはゴードウィクで慌ただしい日々を過ごした。
それでも、船に戻ると、その喧騒は嘘のように消え去った。
外の景色を眺めていると、エイスにも少し旅気分が戻ってきた。
*
下り航路の時とは違い、彼が今いるのは最上級客室。
壁には収納式のベッドまで付いている。
椅子の座り心地もさすがに良い。
エイスは窓辺の椅子に座り、ゴードウィクで購入した本を読む。
誰も訪ねてこないおかげで、久しぶりに一人静かな時間を過ごせている。
そう思っていたところにアルスが話しかけてきた。
『エイス、上り航路になって客層が少し変わった気がしないか?』
『そう言われてみると、そうだな。
乗船の時に見たあの獅子人ハーフもそうだった。
人族女性も一緒だったし、かなり裕福そうだったな』
『あぁーあいつか……。
そう言えば、あいつ帯剣してたし、なかなか強そうだったな』
『あれはなかなかの次元じゃないと思うぞ』
『おまえがそう思うのか……。
だとすると、かなりの腕かもしれない。
どちらにしたところで客層が変わったことに間違いはなさそうだ。
下り航路の時にああいうやつは乗ってなかったからな』
ゴードウィクはミクリアム神聖国中央域の最大都市。
そこからの乗客によってエイスの乗る船も雰囲気が一変した。
なにしろ上級客室の周辺は香りからして変わった。
上級客室内の女性の香水が部屋から漏れてきているのだ。
エイスは先頭から五番目の客室にいる。
二番目の客室をあの獅子人ハーフの一行が使っている。
二つの客室を挟んでいても、時折その部屋からの笑い声が漏れ聞こえてくる。
**
昼食時刻が近づき、船が昼食会場前の桟橋に着船する。
会場は英国のカントリーコテージ風の建物と庭。
建物は平屋だが、かなりの大型建造物である。
上り航路では昼食会場もグレードアップしたようだ。
桟橋ではエンリカとヨニュマの二人がエイスの下船を待っている。
珍しいことに、そこに眼鏡なしのエイスが降りてきた。
二人はさっと移動し、エイスの一歩後ろの両脇を固めるようにして歩く。
それを見て、アルスがエイスに話しかける。
『おーっ、これは久しぶりだの感覚だな』
『んっ?
なにが久しぶりなんだ』
『守人の従者がつくと、勝手にこれをやるんだ。
一歩後方の脇に付き従う。
二人とも律儀だな』
『そういうものなのか?』
『あぁ、これはもうほとんどお約束だ。
お前もすぐに慣れるさ』
エイスはこの二人の存在を少し面倒に思っていた。
彼からすると、別に従者など要らない。
自分のことは自分でやる。邪魔なだけだ。
それが本音である。
アルスはそれを察して、二人を無下に扱うな、と暗に伝えた。
エイスはこの類の守人社会の常識もアルスから教わってきたのだ。
*
船旅では、上級客室の利用客は特別待遇。
昼食会場と宿泊室等も一般室乗客とは異なる。
エイスはこの旅で初めて上級室乗客用の昼食会場に案内された。
エンリカとヨニュマは一般室乗客。
普通なら一般の昼食会場に通される。
だが、一般室乗客であっても上級客室の守人従者となると、話はまた別だ。
基本的に、昼食会場では主と同席、あるいは同一会場内になる。
宿泊時の部屋も主と同一フロアに用意される。
そして、当然だがその料金は上乗せされる。
室内と屋外のテーブル選択で、エイスは屋外を選んだ。
ただし、一般室昼食会場のように好きなテーブルを選ぶことはさすがにできない。
屋外昼食会場のテーブルに案内され、三人でテーブルを囲んだ。
『なんだか、妙な気分だな。
見知らぬ守人が突然従者になって、一緒に昼食をとるのも』
『それはそうだが、今さらだ。
エイス、これも旅さ』
『最近、それが口癖になってるぞ。
まぁ、それは確かにそうなんだが……。
アルス、おまえ最近性格が変わってきたよな』
『そうか?
おれは昔からこうだぞ』
実は、エイスのこの指摘は的確だった。
単一思考になったアルスは以前より感情豊かになった。
普通の人間の思考に近づいている、と言ってもいいだろう。
そして、同じことがエイスにも起こっている。
ただし、その変化の方向性は真逆である。
エイスの性格や思考は、日ごとに龍人へと変化していた。
──二十以上もの並列思考力を有する至高の龍人へ。
*
テーブルでエイスの左に座るのは、エンリカ・ミスカリオル。
22歳。ヨニュマよりも背が高く、ほぼ180cm。
アッシュグレーのロングヘアーを束ねた髪と大きな瞳が特徴。
黒い瞳の中に黄色のリングが浮いているように見える。
非常に印象的な瞳だ。
武芸全般が得意とのことだが、帯剣はしていない。
右の席に座るのは、ヨニュマ・ケリ・リリビトン。
20歳。身長は約175cm。
金髪緑眼で、切れ長の目。
結い上げた髪のせいか、エンリカよりも若いにもかかわらず、落ち着いて見える。
エンリカよりはインドア派で大人しめな雰囲気の女性だ。
そのエンリカとヨニュマの二人の頬が仄かに紅潮している。
眼鏡なしのエイスのあまりの美男子ぶりに、二人は緊張してしまっているのだ。
エンリカはじっと見つめないように注意しながらも、エイスの目元周辺をついつい観察してしまう。
(なんて優美で静穏な瞳なのかしら……。
それに、あんなに美しく長い睫毛を見たことがないわ)
これまでエイスは外では変装用の眼鏡をかけてきた。
色付きレンズの眼鏡が多少なり変装効果を発揮していたが、今はそれもしてない。
そのエイスが二人の間近に座っている。
エンリカとヨニュマはこれまでに経験したことのない胸の高鳴りを感じていた。
他のテーブルに座る女性たちの視線もエイスの方に自然と集まってくる。
これまで変相までしていたエイスが眼鏡を部屋に置いてきた。
その理由は単純だ。
二人の女性を連れている男性に、積極的にアプローチしてくるほどの猛者はさすがにいないだろう。エイスはそう考えたのだ。
しかも、エンリカとヨニュマはなかなかの美女。
そこに割り込むにはかなり勇気がいるはずだ。
ちょっと申し訳なく思いながらも、彼は二人を盾役として有効活用させてもらうことにしたのだ。
*
テーブル担当者からの昼食メニューの説明が終わり、エイスはエンリカとヨニュマとようやく話しだした。
二人ともに最初は少しぎこちなく話していたが、緊張が解けてくると、会話もスムースに運ぶようになっていった。
「そうか。
二人はゴードウィク大聖殿では神官補佐だったのか」
「はい。
私もヨニュマも専門科学校を修了してから地方配属を二年務めました。
その後に聖殿勤務になり、補佐役になりました」
「専門科学校は四年制、それとも二年制?」
「二年制でございます。
地方配属の二年を経験してから最終専科を決めたかったのです」
「ふぅーん……
ということは、医専に進むことも考えて──
そういうことなのかな?」
「そういう話でございます。
私たちは二人とも医系術の適正があります。
ですが、能力的な資質と守人としての生き方は別でございます」
「なるほど、確かにそうだな。
守人としての生き方か……」
エイスは二人から守人としての真摯さが感じ取れた。
同時に、某国の守人族のことを思い出し、心中で少し笑ってしまった。
「インバルに着いたら、二人ともやはり大聖殿勤務になるのか?」
「「──はい」」
やはり二人ともにインバル大聖殿での勤務になるとのこと。
そうであれば、ゴードウィクではキャリア的にもまずまず順調だったと思われる。
「インバル大聖殿でも神官補佐の肩書になるのか?」
「いいえ、さすがにそういうわけにはまいりません。
インバルとゴードウィクとでは聖殿の格が違います。
加えて、組織の規模も人員も異なります。
インバルでは副手の扱いになります」
職位としてはツーランクダウンになり、事務方の一部職務も担う。
インバル大聖殿の神官職はさすがにレベルが高いようだ。
それから話題は二人のインバル行きの目的になった。
この点について二人の方向性は大きく異なっていた。
二人とも地方に派遣された際の現場経験が大きく影響したそうだ。
エンリカは、電撃系術を得意としていることもあり、
彼女は医専を選択せず、将来的には地方の神官職に就きたいとのこと。
「私は北東地域出身でございます。
いずれは地元に戻ろうと考えています。
エステバ王国が近いこともあって、帝国からの脅威にも備えなければなりません」
「そういうことか。
やはり今でも
「状況的に、今は必要ないかと思います。
ただ、万が一に備えて、習得しておく必要があります」
ヨニュマの方は、化学系術と高い医術の才を持ち、高次元の解毒や内臓器官の治療術の習得を目標にしている。
インバル大聖殿に仕えて、聖殿の奨学制度を利用して医専の進みたいとのこと。
彼女の目標は、インバル聖守術修学院の医専に入学すること。
そのために、インバル大聖殿の持つ推薦入学枠を獲得したいと考えていた。
ここでエイスにとってあまり歓迎しない名称が話題中で取り上げられた。
彼はそのインバル聖守術修学院の採用最終面接をこれから現地で受ける。
もちろん、それを二人に話すつもりはない。
なにか質問をされても、返答に困るだけだ。
加えて、彼は聖守術修学院の沿革や組織等に詳しいわけではない。
イストアールからの説明、そしていくつかの資料に目を通したくらいだ。
アルスもこの類の話には疎い。
(いや、これはもしかするとこの二人……
インバル聖守術修学院に詳しいかもしれない。
なにか情報が得られるかもしれないな)
そう考えたエイスは、地雷を踏まないように注意しながら、話を先に進める。
そして、そのエイスの判断は概ね正解だった。
エンリカとヨニュマの二人の方がやはりエイスよりも修学院について詳しかった。
特にヨニュマは正真正銘の入学志望者。当然と言えば当然だ。
そして、二人からの話を聞いて、エイスはインバル聖守術修学院についての認識を改めることになった。
イストアールから聞けなかった重要な情報がその中に含まれていたからだ。
(これは意図的に説明しなかった可能性もあるな……。
イストアールはなにかを企んでいるかもしれない)
*
インバル聖守術修学院の母体は、龍人術と聖守術の研究機関。
その起源は、大聖守術師と呼ばれた伝説の(半)
そこに弟子入り志願者や修行者があまりに多く集まったために、後に教育施設が併設された。
それから長い時を経て、聖守術修学院の名称になったが、その根幹は今も変わりない。研究者集団であり、研究機関なのである。
──教育施設とその人員はその付属組織にすぎない。
ここまではイストアールもきちんと説明してくれていた。
現在でも、インバル聖守術修学院の四人の正教授は大陸最高峰の術師。
その正教授たちは、大陸最高峰術師「十指」の中の四指と呼ばれるほどの実力者。
二人の話では、この正教授の各々が巨大な
アスクルとは、研究施設や研究棟を意味する語。独立的に活動する研究所のような意味も含まれる。
どうやらこれら四つの
(おいおい……その仕組みだとすると、
正教授は、大学の学部や学科の長とは異なるじゃないか。
これは、正教授のために
現実には「インバル聖守術修学院」は単なる看板のようなものなのか。
そうなると、おれもいずれかの
そういうことか……)
伏せられていたのは、修学院が四つの
このいずれもが独立的に運営されていて、各正教授が
裏を返せば、その四人の正教授こそが「インバル聖守術修学院」の実体。
実際に、
(これは、研究職とはいってもイメージしていた職務とは違いそうだ。
そうなると、試験も採用も正教授が全権を持つことになるはずだ。
それにもかかわらず、それがどの
──正教授の名前を伏せておきたかった?)
エイスが聞いたのは、医術、化学術、攻防術、社会・生活術の四分野の研究領域があること。
それは地球の学問領域の概念に近い。
しかし、二人の説明が正確であるなら、その四分野の頂点に立つから「正教授」なのではない。
四人の正教授が存在し、そのための
イストアールがその説明を忘れたという可能性は限りなくゼロに近い。
(イストアールは翼竜便で学長と直接やり取りしたとは言っていた。
──これは確実になにか企みがあるな)
エイスのケースでは、医術か攻防術のいずれかの可能性が高い。
医術だとすると、正教授はかの天才医術師シキの
しかし、エイスの医術式はそのシキとは異なるもの。
そのシキの下で医系術研究を担うというのは、合理性に欠ける気がした。
「私は天才医術師シキ様の医術式を実際に拝見し、教わりたいと願っています」
エイスとは逆に、ヨニュマはそう話しながら目をキラキラと輝かせる。
この大陸で共通的に用いられている医術式の基礎を開発したのはシキ。
シキは現代医術の祖。
そのシキの医術と接する機会が得られるのがインバル聖守術修学院の医専。
ヨニュマの目が輝くのも当然だ。
だからこそ、大陸中から優秀な守人が集まり、その門を叩くのだ。
インバル聖守術修学院には二人の看板正教授がいる。
──医術のシキ・ニイ・アンダルフォス。
──化学のエイケル・リロ・ア・ミルファー。
二人はともに女性。
現学長エイケルは
各国の教科書に載るほどの偉大な化学系術研究者。
大陸で最も知名度の高い術師であり、術研究者。
片や、現代の守人医術師が用いる総合医術式をたった一人で完成させたのがシキ・ニイ・アンダルフォス。
大陸一の天才医術師と謳われ、修学院の医専正教授にして、医専総代。
大陸守人医術師のほぼ全員がシキの医術式を用いる。
それ以外の医術師は独学か
地球医学の記憶を探りながら独自術式を開発したエイスは、この例外中の例外。
エイスは唯一に近いシキの影響を受けていない医術師。
つまり、独学か似非に分類されてしまう人物。
その彼がシキの
まさかイストアールはシキの牙城に楔を打ち込もうと企んでいるのか
──さすがにエイスもそう訝しんでしまう。
『アルス、修学院での仕事は想定していたものとは少し違いそうなんだ。
採用試験も簡単ではなさそうな気がする』
『はぁ!?
何を今さら……。
おまえは自覚がないだけで、術能力は規格外なんだよ!
採用試験なんて問題にもならないさ』
『採用試験もそうなんだが、どうも話が少し胡散臭いんだ』
『胡散臭いって……
なんだ、それ?
嫌なら断ればいいだけだろう』
『まぁーそれはそうなんなんだが。
ただ……その採用試験でも何かありそうな予感がするんだ。
術力を抑えて(半)
正教授はかなり高次の術師のようだから、手抜きがバレなきゃいいんだが。
まぁ、別に落ちても特に困るわけじゃないが……』
エイスにしては珍しくどこか歯切れが悪い。
この状況に少し困惑しているようだ。
『エイス……だから、おまえはなぁ
──自覚が足りないんだよ。
おまえが普通に術を使えば、試験会場が丸ごと消えかねないんだ。
人並みの次元に術力を抑えるくらいでちょうどいいんだよ』
『そんなものなのかなぁ。
なにかなぁ……、気乗りしないんだ』
『別に未来が見えたりしたわけでもないんだろう?
向こうに着けば、おのずと分かることさ』
ご尤もな意見だ。
アルスは心配無用の一言で一笑に付した。
イストアールと修学院学長エイケルの間でどのようなやり取りがあったのかが分からない以上、エイスの解析能力をもってしても、その解は導き出せない。
珍しくエイスが多少困惑している理由もそこにある。
(龍人になってからのおまえはなんでも見通しすぎなんだ。
たまには想定不能なことがあった方がいいんだ。
その方が楽しいんだよ。
大体、美人の守人従者が二人も付いたのに、ちっとも喜んでないし。
まぁーそもそもそういうやつなんだが……
この先が心配になってくるぜ)
アルスはそう独り言を呟きながらも、その調子はどこか明るい。
心配しているというより、単に面白がっているだけなのかもしれない。
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