09 人族薬師
エイスたちは大聖殿からマーサ宅に戻った。
結局、エイスはこの夜も昨晩同様にマーサ宅に泊まることになった。
成り行き上、当然と言えば当然の流れなのだろうが──。
この後、エイスが治療した人たちの家族が次々と訪ねてきた。
そして、謝礼を一切受け取らないエイスのためにと、大量の食材、酒、菓子等がマーサ宅に運び込まれた。
ただ、彼は一人旅中。それらの受け取りも丁重にお断りした。
結局、持ち込まれた大量の食材や酒類はすぐに開けられ、そのままパーティモードに移行した。
マーサ宅は大入り満員。にぎやかな夜になった。
これにはエイスもただただ苦笑いするしかなかった。
それでも、この世界に転生し、初めて触れる人族の生活と人情。
記憶にないにもかかわらず、それは彼にとってどこか懐かしい光景でもあった。
それはきっと、彼がどこか遠くに置いてきたであろう地球と人々の思い出。
この夜、彼は失われた記憶の
**
翌日午前、エイスはソファーでお茶を飲みながらマーサらと話していた。
そこにローグがマーサと同年代の人族男性と一緒に部屋に入ってきた。
男の名はエルイ。
エルイはローグの知人。マーサの夫の友人でもあった。
彼はゴードウィク人族社会の重鎮の一人。
この日、エイスはマーサの友人宅を訪ねる。
その家の主人もマーサと同じく被害者と思われる。
そこに同行するのは、マーサとローグ、そしてこのエルイの三人。
怒り心頭のローグはどのようなことになろうと、マイヤルを許す気はない。
話を聞いて同様に激怒するエルイとともに現場に立ち会い、二人で事の顛末を見届けるつもりのようだ。
二人は大聖殿の決定とは無関係に、薬師マイヤルに制裁するつもりのようだ。
ミクリアム神聖国人族社会のブラックリストにマイヤルを載せると話した。
ブラックリストに載れば、人族薬師のマイヤルは裏世界でしか生きられなくなる。
だが、守人であるベルロアースの方は引退に追い込まれるだけかもしれない。
ローグやエルイの二人であっても、守人に対して社会的な制裁を加えることはさすがにできない。
守人に対する処罰は大聖殿の責務である。
*
出立時刻の三十分前。
マーサ宅の前には馬車が既に待機している。
それは六人乗りの上級仕様の白い馬車。
ゴードウィク大聖殿の所有する馬車だ。
予定時刻になり、エイスらはその馬車に乗り込み、マーサの友人宅へ向かった。
*
マーサ宅から十五分ほど走ったところで馬車がゆっくりと停車した。
エイスの俯瞰視が馬車の前に建つ豪邸を既に捉えていた。
『お、おぉーい……
これはまたご立派な屋敷だな。
エイス、これはかなりの金持ちだぞ』
『あぁ、これはそうだな。
大豪邸なのは間違いない』
実際にその豪邸を見るために、珍しくエイスが窓から外の様子を窺う。
──実見したがっているのはアルスなのだが。
それは長い壁と広大な庭に囲まれた大邸宅。
まるで英国のマナーハウス。
邸宅内に大きな池と小川が見える。
おまけに、そこには橋までかけられている。
ただ、どこかで見たことのあるようなアーチ型で、朱と金に塗られた木造橋。
英国風庭園の中で明らかに異彩を放っている。
『なぁ…あの橋……
悪趣味じゃないか?』
『アルス……
急にボソッとそこを突くなよ。
笑いそうになったじゃないか!
周りからは、突然一人で笑い出したように見えるだろう』
『悪い悪い!
ただ、あれは本当に微妙な趣味だと思わないか?』
『──だから、やめろって!
頭の中で笑うだけではすまなくなるだろう』
無論、これは単なるアルスのお戯れ。
彼はエイスの笑いのツボを熟知している。
この後に待つ面倒な仕事の前に、少しでもリラックスさせようとしたのだ。
大型の門が開かれ、馬車は敷地内へと入っていく。
馬車はそのまま邸宅の玄関前まで進んでいった。
馬車を降りたエイスらを小綺麗な服装の使用人たちが出迎える。
使用人たちも全て人族。
このいかにもな出迎えはエイスにとって少し新鮮だった。
覚醒してからエイスは基本的に守人社会で生活してきた。
守人の生活は総じて地味。
質素とまでは言わないまでも、少なくとも華美な生活ではない。
ところが、この邸宅はまるで欧州の上位富裕層と変わらない。
エイスは思わず心中で笑ってしまう。
(ははっ、ここは違う世界のはずなのに……。
あの悪趣味な橋もそうだけど、
人族のお金持ちは考え方も趣向も似るようだな)
そう感心している間に、エイスたちは応接室の前に着いた。
*
使用人たちが大きな両開きのドアを開いてくれる。
使用人に先導され室内に入ると、先客がいる。
五人の大聖殿神官たちだ。
その全員が片膝をついて仰々しくお辞儀しながらエイスに挨拶する。
その筆頭は昨日会った医専神官。
大聖殿の医専神官長が直々のお出ましだ。
残る四人が順番に簡単な自己紹介を行った。
四人中の三人は医専の守人医術師。もう一人は捕縛係。
その後方には、この邸宅の主とその家族がひれ伏している。
エイスは苦笑しつつも簡単な挨拶をした。
すると、マーサが気を利かせて、彼の代わりに全員を立たせてくれた。
(この仰々しい挨拶がなぁ。
元々こういうのは好きじゃないし、どうにも慣れない。
マーサのこういうちょっとした気遣いが……
本当にありがたい)
それから、エイスは先ず病人の診察を開始した。
患者はこの邸宅の主人。
すぐに医専神官がエイスの横につき、患者についての所見を伝える。
マーサと似た症状が出ているが、より深刻な病状だ。
一人ではもう歩くこともできない。
『エイス、これは相当悪そうだな』
『そうだな。悪いことは悪い……。
ただ、それでもまだ立つことはできている。
これならおそらく治療できるだろう』
普段、エイスは守人に術技を見せるようなことはしないのだが、医術だけは別だ。
地球の薬学は封印対象だが、医系術は問題ない。
参考になるなら、参考にしてもらって構わない。
エイスが術を使うと話すと、医専神官たちが目を輝かせて集まってくる。
エイスはマーサの時と同様に、ソファーに横になった患者を眠らせた。
そして、
それは医専神官長でさえ初めて見る古の術。
内臓器官がそのまま浮かび上がって見える様に、守人たちは仰天し、声も出ない。
それでも、そこにいるのは医専神官たちだ。
一斉に近寄り、目を皿のようにして、必死に術の正体を見極めようとする。
エイスが各部位を拡大投映すると、それにまた驚き、今度は食い入るようにそれを見つめる。
エイスが各部の解説を始めたところで、医専神官たちとの質疑応答になった。
医術師にとって、これは未知の領域の知識と経験が得られるまたとない機会。
医専神官たちは子供のように目を輝かせながら、夢中でその時間を過ごした。
当初、透視診察の予定時間は十分だったが、予定時間を大幅に超過してしまった。
エイスに代わり、四人は直ちに解毒処置を開始した。
内臓器とその周辺に蓄積された毒素を精確に掌握することは、守人医術師にとっても難題だった。
エイスからその解析結果と対処法を得たことで、四人は自信を持って解毒処置を行える。
それから、医専神官長も含め、四人の守人共同作業で解毒が進められた。
三十分後には解毒処置を終えられた。
ただ、問題はここからだ。
患者の容態に合わせ、多数の小術を複雑に組み合わせながら行う急速回復術は、ここではエイスにしか使えない超高等術。
エイスは惜しげもなくそれを実演しながら、簡単な解説も行う。
医専神官たちはエイスの回復術を凝視しながらも、必死にペンを走らせる。
医専神官長の他にも上位級の医専神官がいるのだが、全員がまるでなにかに憑りつかれたかのように治療を見学しながら懸命にペンを走らせる。
*
エイスは急速回復処置を終えた。
だが、患者の基礎体力がかなり低下していたこともあり、彼の回復術でも一度で完治させることはできなかった。
それでも、患者の様子は見違えるほど改善し、杖なしでも歩けるようになった。
顔色が良くなり、一人で歩けるようになった姿を見て、家族が涙する。
即席医療チームの五人からも笑みがこぼれる。
エイスの指示通りに守人医術師から治療を受ければ、二か月ほどでほぼ完治するだろう。
次の仕事は、一時間後にやってくる人族薬師マイヤル・ニイルセンとの対峙だ。
エイスたちは休憩を取りながら、その段取りについて話し合う。
**
中肉中背。濃茶色の髪。
年齢は50歳くらいだろうか。
イタリア紳士といった風体の男。
オシャレな眼鏡と高級仕立てっぽい洋服を伊達男にならないように着こなす。
薬師とは思えない……高貴な清潔感が漂う。
それが人族薬師マイヤル・ニイルセン。
時間ピッタリに現れた薬師マイヤルは応接室に通された。
ソファに座り、出されたお茶を飲みながらも、どこか落ち着かない様子だ。
それは無理もなかった。
いつもなら、患者の寝室に直接通されるからだ。
先に応接室に通されたことは、この半年内に一度もなかった。
応接室のドアにノック音が響いた。
使用人がドアを大きく開きながら室内に入り、頭を下げる。
次の瞬間、マイヤルの全身がビクッと大きく震えた。
室内に一人の女性が入ってきたからだ。
「あらっ、マイヤル先生ではございませんか。
今日、ここでお会いするとは思いませんでした。
ご機嫌はいかがでしょうか」
マーサはそう挨拶すると、笑顔でカーテシーのように優雅なお辞儀をした。
マイヤルは少し唖然とした様子だ。
「マ、マーサ……。
これは驚いた。ここで会うとは思わなかった。
今日はまた……
いやに調子が良さそうじゃないか」
「まぁーお分かりになりますか、先生!
一昨日、幸運が舞い降りまして、すっかり元気になりましたの」
「は、はぁ!?
げ、げんきになった……
幸運が舞い降りた?」
「うふっ……、そうですの。
すごーい幸運を孫たちが運んできてくれましたのよ」
このマーサの意味不明な説明に、マイヤルは大いに動揺する。
彼女は一週間前まで手術予定について話さなければならない病状だった。
彼からすれば、彼女がここに来られるはずがないのだ。
胸中穏やかではないのだろう。マイヤルの額に汗が滲みだした。
そこに靴音を鳴らしながらもう一人、今度は男性が入ってくる。
「これはこれはマイヤル先生。
今日もお元気そうでなによりですな。
申し訳ありません。
少々お待たせしましたかな?」
マイヤルはその声を聞き、思わず立ち上がった。
そして、室内に入ってきた男の姿を確認して、マイヤルの体が硬直する。
それは床に伏しているはずのこの家の主。
「おや、どうされましたかな、先生?
お顔の色が優れないようですが」
この家の主とマーサは何事もなかったかのように平然とマイヤルに話しかける。
だが、二人の心中はその真逆。
マイヤルを呪い殺したいほどの怒りに震えている。
だが、同時にマイヤルのその狼狽ぶりを見て、嘲笑いながらも、いたぶるための言葉を探す。
それから、二人はしばしマイヤルを弄んだ。
死の恐怖と戦ってきた二人にとって、これは復讐の場なのだ。
マイヤルが動揺すればするほど、気分は高揚し、爽快感が得られた。
当のマイヤルは状況が飲み込めず、二人から弄ばれていることにさえ気づけない。
思考回路が止まり、ただただ沈黙するマイヤルの姿を見て、二人が鼻で嘲笑った。
マーサの口元は微笑んでいるが、目はそうではない。
「不思議なもの……。
人間、これ以上ないほどの怒りが込み上げてくると、笑えてくるものなのね」
そのマーサの言葉に、この家の主も笑顔で頷いた。
その二人の笑顔を見て、マイヤルは背筋が凍るような悪寒を覚えた。
*
そこに、微かな靴音とともにもう一人男性が入ってくる。
一瞥には、長身の守人。
その男はマイヤルの方へゆっくりと歩いていく。
そして、マイヤルから5mほどのところでその足を止めた。
その男は守人ではない。何かが違う。
男の耳を見てマイヤルはそれにようやく気づいた。
その途端、彼の足がガタガタと震えだした。
そこにマーサの声が響く。
「マイヤル先生、ご紹介いたしますわ。
最高位医術師、(半)
エイスは小さく頭を下げると、優しく微笑んだ。
「──さて。
別にきみに自己紹介を求めたりはしない。
事情は見ればもう分かるだろう。
わたしが二人を治療した。
正しくは──往診した──かな」
エイスは少し芝居がかった話し方をあえて選んだ。
聞こえてくるアルスの笑い声は、とりあえず無視する。
それを聞いたマイヤルの全身から汗が噴き出す。
よりにもよって、二人の診察と治療を行ったのが(半)
(半)
彼もそれは知っている。
聖守医術の開祖、大聖守術師ミビルガンナ・オル・キドロンも(半)
(い、いかん!
よりにもよって、医術使いの龍人様がなぜここに……)
マイヤルの頭の中で警鐘の音が盛大に鳴り響く。
用心深いこの男は本能的に重大な危機を察知したのだ。
それでも、彼はこの状況をどこかでまだ甘くみていた。
──鳴り響いているのが破滅の鐘の音とは知らずに。
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