08 ゴードウィク大聖殿
翌朝、エイスがダイニングに現れ、家族と挨拶を交わす。
昨日まで病弱だったマーサが今朝はキッチンで料理をしている。
彼女はエイスに気づくと、バレエのように優雅なステップを踏み、深々とお辞儀をしながら朝の挨拶をする。
「おはようございます、エイス様」
昔、彼女はクラシックバレエに似たダンスの講師をしていたそうだ。
そして、彼女は笑顔で体調の回復をエイスに伝えた。
膝の調子も良くなり、軽快に動けるようになった、と。
その優雅な挨拶で、彼女はエイスに心からそう伝えたかったのだ。
エイスは右手を胸に添え、優雅なお辞儀と笑顔とともに挨拶を返した。
*
エイスが朝食をとり終えるのを待ってから、ローグがテーブルに座り話しだした。
昨晩エイスと話し合った通りに、彼はこの周辺の知り合いの中に類似例を捜した。
彼は怒りの表情に滲ませながら、この近所だけでも四人を見つけたと報告した。
その中には彼の友人の父も含まれていた。
エイスは着替えると、ローグとともにその友人宅へと向かう。
ローグとエイスの後にはまるで秘書のようにメイラが付き従っている。
**
エイスら三人はお昼過ぎにマーサ宅に戻ってきた。
エイスだけは普段通りの表情だが、ローグとメイラの二人の表情は硬かった。
ダイニングテーブルに座った三人は黙って出されたお茶を口にする。
「それでどうだったんだい?」
マーサは気が気ではないようで、思わずローグにそう尋ねた。
ローグはフーッと大きな息を吐き、一呼吸をおいてから口を開いた。
「状況は最悪だ。
四人全員がやはりそうだった……。
エイラルの親父さんはかなり腎臓疾患が進んでいて、危ないところだった」
「そ……、それでどうなったの?」
「幸いにエイス様に治療していただけた。
みんな状態が悪化していて、近々手術を受ける予定になっていたんだ。
それが、エイス様の治療ですぐに動けるようになった。
ただ……
それでも全快はしたわけじゃない。
かなり進行していたから、簡単に完治するものではないそうだ」
エイスであっても治療には限界がある。
何でも一度で治せるわけではない。
特に臓器の障害や部分不全は厄介だ。
エイスが一度の治療でほぼ完治させられたのは四人中の一人だけだった。
「とりあえず解毒だけは終えられた。
その後に、できる限り肝機能と腎機能を回復させた。
だが、一度の治療だけでは回復にも限界がある。
治療よりも回復の方が難しいし、時間がかかるものなんだ。
これから定期的に守人医術師の回復処置を受けてもらうしかない」
メイラとロサンの祖母マーサは幸運だった。
エイスの一度の治療でほぼ完治できた。
そうではない者は、これからさらに治療を受けなければならない。
簡単な説明だったが、マーサたちも納得したようだ。
ただ、問題はここからだ。
おそらくこの被害者はもっと多いはず。
エイスもそれを考えると動かざるをえなかった。
「これは大聖殿に動いてもらうしかないだろうな。
誰か案内してくれないか?」
マーサが自ら手を挙げた。
「私がご案内いたします。
──ローグ、馬車を呼んでおくれ。
それから、メイラ、私の荷物を持ってくれないか。
お前たちも預かってきた四家の処方薬をきちんと分かりやすいようにしておいておくれ」
さすがは年の功。マーサは頭も回る。
エイスの目的をすぐに察して、その段取りを指示してくれた。
エイスは既にこれが大事件に発展すると確信していた。
そして、マーサとローグもこれがゴードウィク在住の人族社会の危機であることを認識していた。
────マーサとローグの目が怒りに満ちている。
**
午後二時半。ゴードウィク大聖殿の前に一台の馬車が到着した。
人口22万人都市の大聖殿。かなりの大型建造物である。
馬車を降りたエイスら三人がその聖殿の中へと入っていった。
───その十五分後、大聖殿の中は大騒ぎになっていた。
**
先ず三人は普通に受付に向かい、マーサが医専神官と話したいと伝えた。
だが、それだけで「はい、そうですか。どうぞ」
……とはならなかった。
そこで、マーサは知り合いの神官の名前を出して、その人物を呼んでほしいと頼んだ。
ところが、受付担当の獣人の応対があまり良くない。
長耳と尻尾が特徴的な白猫人の女性だ。
受付説明を繰り返し、「ご用件は?」と返すだけで、話が先に進まない。
マーサもまさか窓口の受付担当者に重大案件を話すわけにはいかない。
『受付担当が長耳の白猫人かぁ。
エイス、嫌な予感がする。
面倒なことにならなきゃいいんだが』
その猫人は耳と尻尾だけでなく体毛が全て白色。
身長170cmくらいだが、遠目には線の細い白虎人的な容姿。
窓口担当スマイルを崩さず、同じ説明と質問を淡々と繰り返す。
『長耳の白猫人だとなにが問題なんだ?』
『あーっと、おまえはそういうところは疎いんだったか。
長耳白猫人の女は気分屋で、ご機嫌次第なところがあるんだ。
機嫌が良い時はよく動いてくれるんだが……
そうでないと時に無理押しすると頑な態度になりやすいんだ。
拗れると面倒なんだよ』
『アルス、おまえなぁ……
そういうことは先に言えよ』
アルスのこの白猫人評はかなり的を射ていた。
時すでに遅し。
マーサはアポなしでやってきて、いきなり知人の神官に会いたいと伝えたのだ。
肝心の要件もその神官に直接伝える、と。
しかも少し上から目線で──。
残念ながら、ここは日本のお店ではなく、神聖国の大聖殿。
おそらく一番嫌がられる態度の訪問者だろう。
アルスの指摘通り、受付担当の白猫人は同じ質問を何度も繰り返す。
笑顔は崩さないものの、尻尾の動きから少しイラついているのが分かる。
マーサも少し気が急いている。
その受付担当者の態度にカチンときたようだ。
そのせいか、彼女の語気が少しずつ強まっていく。
すると、それに応じるかのように白猫人の応対が冷淡になっていく。
どっちもどっちだが、二人から険悪なムードが漂いだした。
「やれやれ、仕方ないか」
エイスはそのやり取りを黙視していたが、その横で溜息交じりにそう呟いた。
それを聞いた白猫人とマーサの視線がエイスの方を向く。
エイスがゆっくりと眼鏡を外した。
直後に、彼の顔から顎鬚が消えていった。
そして、守人の特徴でもある長耳が少し短くなった。
「ふはぁ!?」
受付の白猫人から少し奇妙な声が漏れ出た。
マーサとメイラもその変化に驚いている。
近くにいた別の事務官が何かに気づき、声を漏らす。
「りゅ……、龍人さ……ま!?」
それを聞いた周辺の事務官たち、そしてマーサとメイラがエイスに注目する。
「
名はエイス・オ・ルファ・リート。
これが身分証だ」
エイスはシルバーの身分証を取り出し、事務官に提示した。
高位神官職と記されたその身分証を確認すると、事務官の表情が一変する。
そこにエイスがさらに追い討ちをかける。
「イストアール・エン・ケ・オルカタスの知人だ。
急ぎの用件がある。
医専神官と話したい」
それを聞いていた他の事務官たちが一斉に走り出した。
それまで不愛想だった受付担当者と事務官らが直立不動の姿勢のまま固まった。
マーサとメイラも口を半開きにして固まっている。
「悪いな。
別に騙すつもりはなかった。
ただ、正体を知られると旅がしにくくなるんだ」
走り回る事務官たちの様子を窺いながら、アルスだけが笑っている。
**
五分後、三人は大層な貴賓室に通されていた。
そこにこの大聖殿の最高位神官と五人の高位神官が現れた。
(おおいっ……
いやいや、六人も出てこなくていいんだよ。
神官長まで出てきたのかぁ。
イストアールの名前は強烈過ぎたようだ)
アルスは六人も神官が出てきたことにまた爆笑している。
『おまえがイストアールの名前を出すからだ!』
エイスは、今さらながらそのVIPぶりに驚かされる。
実は、この神官たちは「(半)
しかも、噂には尾鰭がつくもの……で、結構な大物にされていた。
一人で50m級のダミロディアスと千体ものミギニヤを一瞬で倒したとか、だ。
いつの間にか、その大きさも数も増えていた。
それもあってか、入室した際に六人はいきなり片膝をついてエイスに挨拶した。
これにはマーサとメイラが顔を引きつらせながら驚いていた。
**
エイスとマーサが説明を始めると、神官六人の表情が一気に強張った。
そして、マーサが人族薬師マイヤル・ニイルセンと守人医術師ベルロアース・ジク・シシハルの二人の名前を出した時だ。
神官の一人がソファーの肘置きを握り拳で叩いた。
守人医術師ベルロアース・ジク・シシハルは人族専門の老医術師。
だが、近年ベルロアースにはきな臭い噂が絶えない。
聖殿も何度か診療所の査察を行ったが、確たる証拠を見つけられずにいた。
手をこまねいていたわけではないが、廃業に追い込むことはできていなかった。
これは、守人医術師の信用問題に係わることだけに、表沙汰にはなっていない。
神官たちの表情からもその心痛と無念さが伝わってきた。
エイスの指示で、メイラが鞄から名前別に小分けにされた処方薬を取り出した。
そこには、マーサの処方薬も含まれている。
「診療所をいくら調べたところでなにも見つからないだろう。
そこに怪しいものはなに一つないはずだ。
原因はこれだからな」
エイスはそう話してから、マーサの処方薬の包みを開いた。
彼が右掌を粉薬の上に翳すと、その中に微量に混じる
「この粉薬には何種類かの茸の粉末が含まれている。
ただ、生薬的な効能のないものばかりだ。
胸脇部の圧痛を一時的に抑える乾燥根も加えてある。
だから飲んでからしばらくは圧痛が収まる。
そして、こっちの……この黄色く光っているのが毒茸の粉。
こいつがその後に心機能を一時的に衰弱させて、胸を苦しく感じさせる」
「服用すると、一時的には楽になりますが……
時間が経つとまた胸が苦しくなったり、重くなったように感じるわけですか」
エイスはその微量の粉だけを空中に浮かせて、別の紙の上に移動させた。
守人たちはその一連の術技を見て、内心では大声を上げてしまいそうになるほど驚いていた。
六人の高位神官たちもそれらの術技を知ってはいた。
たが、実際にそれらの術技が使える術者に初めて会ったのだ。
それでも、医専神官は気を取り直して、その毒茸の
いくつかの術を用いて簡単な検査を行っていく。
「これはどうやらミドヴァウロのようです。
人族には猛毒です。
ただ……微量なら体調が優れないくらいにしか感じないでしょう。
若者ならおそらく胸が少し重く感じるのと、微熱が出るくらいでしょう」
その神官の所見を聞いてから、エイスはまた別の粉粒体を分離した。
彼はその粉粒体を指さしながら、話しだした。
「問題はこっちだ。
こっちは鉱物結晶を粉粒体にしたものだ。
これは人族には有害物質(ヒ素に似た鉱物)で、体内に蓄積されていく。
実際には、マーサは肝機能と腎機能の障害に悩まされていた。
それなのに、医術師は心血管疾患と宣告して、手術の段取りを進めていた」
このエイスの二つ目の説明を聞いて、神官たちもこの悪行のカラクリを理解した。
人族は年齢に応じて医術師と薬師への依存度がどうしても高くなる。
薬師と医術師が組めば、高齢の患者たちをいかようにでもできてしまう。
人族の心不全、冠動脈疾患、心臓弁膜症、心筋症等には、守人医術師であっても外科的治療を併用することがある。
基本の医系術だけでは治療できない疾患も多いのだ。
このため、人族専門の医術師がいる。
ベルロアース・ジク・シシハルもその一人。
人族社会では、高齢者の二人に一人は人族薬師から何らかの生薬を処方してもらっている。
この点に関しては日本と似ている。
その薬師が富裕層の固定客を増やしながら、懇意の医術師に紹介する患者を作り出す。
露見しないように、多数の高齢者中のごく一部だけを狙う手口だろう。
だが、マイヤル・ニイルセンはゴードウィクの人族社会で名の知られた薬師。守人医術師ベルロアース・ジク・シシハルも同様である。
その被害者の総数はけして少なくないはずだ。
先ずは、その二人を拘束し、その被害の実情を明らかにしなければならない。
六人の高位神官たちも大事件に発展することを覚悟した。
「私たちの方で今日中に調査班を編成して、すぐに動きます。
ただ、ベルロアースを捕縛するためには、薬師の自供が不可欠です。
しかし、相手がマイヤルとなると……
そう簡単に自供するとは思えません。
加えて、やつの人脈は侮れないものがあります」
この神官の話についてはマーサも同意見だった。
マイヤルを拘束しても、尋問できるのはせいぜい一日。
人族薬師会の重鎮だけに、関係者が聖殿に対して圧力をかけてくるだろう。
しかも、彼は否認か黙秘するだけで、自供することは絶対にないだろう、と。
それでも、大聖殿が動けば、マイヤルとベルロアースの動きを封じ、被害者の増加を抑えることができるだろう。
ただ、犯した罪の償いをさせるところにまでは及ばないかもしれない。
その可能性が高いということなのだろう。
六人の神官たちの顔に苦渋の色が浮かんでいる。
*
エイスの船は明後日の午前に出航する。
ここゴードウィクにいるのも、実質的には今日と明日だけ。
彼は偶然的にこの件に関わったが、時間的にもできることはそれほど多くない。
事の顛末を最後まで見届けることはおそらくできないだろう。
それを分かったうえで、エイスは静かに話しだした。
「明日の午後にその薬師がマーサの友人の自宅に薬を届けにくるそうだ。
その家でおれがそいつと直接話してみよう。
上手くいくかどうか分からないが、一策を案じてみた。
悪いが、立ち合いと拘束のために守人を何人か派遣してくれないか」
「エイス様がマイヤルと……。
それは我々守人の責務でございますが」
「その薬師を自供させるのは簡単ではないんだろう?
おれなら、もしかしたらそいつを自供させられるかもしれない。
──ただ、それもそいつの心根次第なんだがな」
「心根次第……でございますか?」
「そうだ。
そこが腐っていたら、拷問でもしない限り、話しはしないさ」
聖守術の中には自白術もある。
だが、それは秘匿情報を聞き出すための術であって、自供させるわけではない。
自白したことも憶えていないため、罪を認めたことにはならない。
また、この自白術を用いると、脳に障害が残る危険性がある。
戦時中には使われたが、今ではほぼ禁術の扱いになっている。
エイスからの話を聞いて、同席していた最高位神官がエイスの要請を承諾した。
守人たちの派遣も約束してくれた。
**
大聖殿からエイスらが出ると、出入口正面には既に馬車が待機していた。
大聖殿所有のなかなか立派な馬車。
エイスらはその馬車でマーサ宅に送ってもらえた。
馬車の中で、エイスの顔に顎髭が戻り、耳が伸びた。
マーサとメイラはそれを見て再び驚く。
だが、今度は笑ってくれた。
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