第四章

01 町の香り


 コンフィオルへの帰りの馬車の中、エイスは自らの回復を実感していた。

 行きの道中では、重い荷物による馬車の揺れを苦痛に感じた。

 帰りの道中も、同様に重い荷物を載せているため、相応に揺れている。

 馬車の荷台にまたも酒樽が積まれているからだ。

 今度は兎人がイストアールのために仕込んだ果実酒の樽。

 だが、エイスはこの馬車の揺れも特に気にならなくなっていた。


『大滝に向かう時より今の方が揺れはひどいんだけどなぁ。

  今は揺れが全然気にならない』

『そりゃーそうだろう。

  おれの体はほぼ二世紀の間休眠していたんだ。

  普通に動き出せたことがそもそも奇跡みたいなものさ』

『いや……実はそうでもなかったんだがな。

  今だから話すが、腕、脚、その他にも少し問題があったんだ』

『えっ⁉

  でも覚醒した直後でも普通に動けたじゃないか』

『一度全身を再構成したから、その時に修復したんだ。

  深刻な栄養障害だったんだぞ。

  正直、状態はあまり良くなかった。

  まぁー麻痺や壊死ではなかったからな。

  肉体を最適化する時に、同時に修復できた』

『やっぱりそういう問題はあったのかぁ』

『二世紀だからな。

  あの程度ですんだことが奇跡と言えるかもしれないな』


 アルスの意識がそこで一瞬薄らいだ。

 彼は孤独で過ごしていたその二世紀を思い出したのだ。


『そうだな……

  途中からもう外には二度と出られないと思っていた』

『あの状況ではそうだったんだろうな。

  それに、ここにイストアールがいたことも大きかった』

『ああ、それは間違いない。

  昔たまたま助けたことが、ここでの助けになるとはなぁ』

『これもなにかの縁なんだろうな……。

  あっ! それはそうと……

  この回復具合なら予定よりも早く動き出せそうだ。

  ──まずはなにをしたいんだ?』

『それなんだが、おまえにはまだ一つ問題が残っているからなぁ』

『えっ? なんだ、それ?』

『おまえ……まだ馬に乗れないだろう!』


 馬車に揺られながら、エイスはアルスとこの乗馬をネタに盛り上がった。

 何しろ、もう「自由に動ける」わけだ。

 それは二人にとって目標の一つだった。

 ──エイスは馬に乗れないのだが。


 エイスはコンフィオルと大滝ミララシア周辺しか知らない。

 アルスは二世紀近くも泉底にいた。

 それ以前の彼は旧ランゲル公国やその周辺国で戦いに明け暮れていた。

 実は、彼はミクリアム神聖国の南域にさえまだ行ったことがなかった。

 旅行など一度もしたことがない。


 ──大陸最大のオペル湖が見たい。

 ──古都インバルも見たい。

 アルスは率直にエイスにそう話した。


 事実上、エイスと入れ替わったことで、アルスはこれまでのしがらみから解放された。

 また、何を話したところで聞き手はエイス。

 本音で話せる。

 彼はこれまで抑えてきた欲求や好奇心を率直にエイスに伝えた。


『この国の首都インバルは美しいらしいからなぁ。

  一度見て見たかったんだ』

『俺はそれでも全然構わない。

  何しろこの周辺しか知らないから、どこでもいいぞ。

  ただ、……この国の北部にはまだ知り合いもいるだろうに。

  いいのか?』


『いや、それはもう別にいいんだ。

  俺はもう死んだんだ。

  今さら戦争の思い出を追いたくはない。

  奇妙な話かもしれないが、俺は初めて自由になれた気がしているんだ』


 アルスは旧ランゲル公国とその周辺にはあまり近づきたくないようだった。

 エイスと入れ替わってから、アルスはこれまでの半生を全肯定しなくなっていた。

 龍人であったがための辛酸と苦悩をきっと味わってきたのだろう。


 少し間をおいてからアルスの小声が頭に響いた。


『──龍人になんて生まれるものじゃないさ』


 アルスは時々そう呟く。

 なぜだか、エイスはそれを聞く度に胸が張り裂けそうになる。



        **


 ミクリアム神聖国の西と南の国境沿いは基本的に山脈。

 リキスタバル共和国側は特にそうだ。

 神聖国は国境線上の約2/3を山連峰に囲まれている。

 だが、神聖国内はほぼ全域が撓曲盆地内のようになっていて、高度も低い。

 国境線沿いだけが高地。内地の大部分は広大な平地。

 温暖で、川が多く、肥沃な土地が広がる。

 農牧に適した自然豊かな国。


 北域の平均標高は60m。

 南域の首都インバルは標高170m。

 北から南に向けて緩やかに標高が高くなっていく。

 このため、国内の北と南ともに平均気温にほとんど差がない。

 真夏でも最高気温は30℃くらい。

 真冬でも北域の最低気温は5℃ほど。インバルは約7℃。


 国境付近の山間部では冬に降雪も見られるが、積雪があるのは一部の高地だけ。

 気候的には、オーストリア南域からクロアチアの海岸部にかけての地域に近いが、神聖国の方が少し温かい。


 街並みも欧州にどこか似ている。

 古都インバルだけはフィレンツェ的な景色。

 北域はややクロアチア的な風景と気候。

 コンフィオルもそんな欧州的な田舎町の風情がある。

 クロアチア国境に近いハンガリーの田舎町セリー(Sellye)の街によく似ている。



        **


 コーチ馬車がコンフィオルの聖殿前に到着した。

 事務官や衛兵らが荷台の荷物をすぐに降ろし始めた。


 エイスが降りてこないのは、乗降用ステップの取り付けを待っているからだ。

 乗客が自らドアを開けてはならない。

 準備が整うのをジッと待つしかない。


 馬車の周辺ではこの時点で数人の女性たちが足を止めた。

 女性たちが馬車の小窓の方をしきり見ている。

 馬車に装飾の施された乗降用ステップの取付作業が始まった時には、その周辺に既に十人以上の女性たちが立ち止まっていた。


 ようやくドアが開かれ、エイスが降りてきた。

 彼が馬車から降り立った際には、面識のないはずの女性たちから一方的に挨拶を受けた。

 まぁ、ほとんどが「エイスさま~」的なコールの挨拶だ。

 手も振っている。


 気づけば、その周辺には既に三十人以上の若い女性たちがたむろしていた。

 そこからほのかに漂ってくるその女性たちの香水の香りがエイスに「町」を思い出させた。皮肉な話だが、出迎えた甘い香りと歓声が彼にコンフィオルへの帰町を実感させた。


 この世界では香水が香るのは町中だけ。

 ただ、町中であっても、聖殿勤務の女性たちは香水等はつけない。

 獣人族が香りに敏感なため、香水を嫌がるからだ。


 その喧騒に即応するかのように、聖殿内からリーロとアミルが飛び出してきた。

 二人はささっとエイスの両脇に立つと、エスコトートするかのようにして聖殿内に連れ去った。

 間もなくして、残念そうな顔をしながら女性たちはそこから立ち去っていった。


        *


 エイスは、最初に運び込まれた聖殿二階の特別室(迎賓室)ではなく、一般来客用個室に荷物を運び入れた。

 特別室は彼には広すぎる。

 落ち着かないと話し、一般来客室へ移ったのだ。

 とは言っても、彼の持つ荷物は基本的に衣服と靴のみ。中木箱と小木箱だけだ。

 それに、巨大な蛇真鋼塊。ダミロディアスの頭骨中から取り出した希少金属だ。


 彼は荷物をほとんど持たない。

 同様に、お金もほとんど持たない。

 このままでは今後の予定も立てられない。

 ただ、それではさすがに困る。

 手持ちの蛇真鋼塊はかなり高価らしいので、それを売って旅の資金を得る予定だ。


 馬車で持ち帰った武具類は衛兵所に返却された。

 彼がまだ借りているのは小太刀だけ。

 ダミロディアスとの戦いで大太刀は折れてしまったが、その状態のままで一応返却した。

 イストアールによると、修理できるようなら、修理するそうだ。


 ただ、元々使い手のいなかった武器。

 出来も良くない。「お気遣いは無用」とのことだった。

 衛兵所でもエイスがその大太刀でダミロディアスを倒したと聞いて、目を丸くしていた。

 重く大きいだけの馬上用の太刀。

 それでダミロディアスを倒せたのは奇跡的なこと。


 だが、その大太刀の使い手がエイス、かつ倒したのは40m級のダミロディアス。

 衛兵所員たちは、その大太刀を修理、もしくは外形だけ修復して、衛兵所入口に展示しようと話しだした。

 これにはエイスも苦笑するしかなかった。


 白虎人族から贈られた大太刀の所有権についても一応相談してみた。

 彼は借り受けた大太刀を折ってしまったため、それを引き渡すのも仕方ないと考えていたのだ。ただ、さすがにそれはエイスが貰い受けたものなので、衛兵所に引き渡す必要はなかった。


 手持ちの武器を全て渡すと、エイスは武器屋に直行しなければならなくなる。

 だが、太刀の鍛冶職人はこの周辺には少ないらしい。

 大きな町でしか上級の太刀は入手できないとのことだった。

 とりあえず手持ちの大太刀をそのまま使うことができることになったので、急場はそれでしのげそうだ。


 貰った大太刀はそれなりの物だが、けして上物と呼べるような代物ではない。

 いずれどこかで業物わざものを見つけなればならないだろう。

 だが、衛兵所で大太刀の相場価格を尋ねて、エイスは眩暈がしてきた。

 上級太刀は恐ろしく高かった。


 この世界の上級太刀とは、竜系人ヴァラオの刀鍛冶が製作した物を指す。

 数的には人族の鍛冶師が多いのだが、刀鍛冶の名匠は全て竜系人ヴァラオ

 その腕は日本の名匠たちをも遥かに凌駕する。

 これには二つの理由がある。

 竜系人ヴァラオはイメージ的にはドラゴニュートのような種族。

 高温に強く、感覚器官と身体の能力が驚異的に高い。

 おまけに人族よりも器用。

 第二に、竜系人ヴァラオは龍人並みの長命種族。

 十世紀近く生きる者も少なくない。

 鍛冶歴が数百年にも及ぶ名匠の叩いた太刀は、異次元レベルの出来になる。


 それを聞いたエイスはあっさりと業物を諦めた。

 しばらくは手持ちの大太刀を使い続けるしかなさそうだった。


『金がないのに、ダミロディアスの鱗を共和国のやつらにやるからさ。

  自業自得だ!』


 アルスが大笑いしながら、そう声をかけてきた。

 確かにその通りだ。エイスも返す言葉がなかった。


 ただ、そう話したアルスだが、実は彼もよく分かっていなかった。

 上級太刀は蛇真鋼塊と鱗の売却金額程度で買えるほど庶民的な価格ではないのだ。

 アルスは剣の良し悪しは分かっても、その相場など全く知らなかった。

 ──英雄アルスは武具の支払いなど一度もしたことがなかった。


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