09 ほろ苦いデビュー戦
この日もクレム聖泉にイストアールと三巫女が水質調査にやってきた。
洞窟奥の泉が見える場所に着いた時点で、四人はその変化に気づき、声を上げた。
「瘴気の靄が完全に消えています……」
「ああ……、ここからでも泉が見えるぞ」
三巫女は足の遅いイストアールに小さく頭を下げると、全速で泉へと駆けだした。
これは予想されていたことだったが、その変化があまりに急に起こった。
四人は、この泉の変化はもっとゆっくりと、そして静かに進行すると考えていたのだ。
その予想は覆された。一晩で状況は一変した。
泉の縁に立ち、エリル、リーロ、アミルは泉面を覗き込んだ。
そこで、三人は息を呑む。
眼下の泉面のあちらこちらに薄っすらと泉底が映しだされている。
泉水の淀みが薄れ、本来の泉水色であるコバルトブルーに戻っている。
まだところどころに淀み溜まりと濁りが残るものの、一夜にして聖泉は以前の姿を取り戻していた。
遅れて泉の縁に着いたイストアールもその光景を一目見て、硬直してしまった。
四人の頭の中に共通する思い、それは──
──龍人アルスの最後。
四人はその封印術が解除不能であることは分かっていた。
それでも、亡国の英雄騎士アルスは伝説の龍人。
その竜神剣の一振りは、周辺国を含む国々と人々を救ってきた。
各地の精鋭たちとともに、人族至上主義の侵略者たちを薙ぎ払い、人族以外の太古からの安住地を取り戻した。
──その龍人アルスが最後の時を迎えたのだ。
*
その時だった。イストアールと三巫女の頭の中に言葉が響いた。
『イストアールか……。久しいな』
それを聞いたイストアールの目が見開いた。
『おおっ……、こ、これは……
ア、アルス様でございますか?』
『そうだ』
念話ではあるものの、初めて聞くアルスの言葉に巫女たちの目から涙が零れる。
四人は跪いて祈りだした。
それからイストアールとアルスは短い言葉を交えて数分の会話を行った。
イストアールは思い出と感謝の念に胸が詰まり、号泣しながら話した。
アルスが言葉を選ぶかのように慎重に話しだした。
『残念だが、腕輪が消滅した……。
我の精神体と肉体はもうすぐ消滅するだろう』
その言葉は四人の胸を抉るかのように刺さった。
『悪いが、もう時間がない……。
最後にお前に頼みがある。聞いてくれるか?』
『……なんでございましょうか?
何なりとお申しつけください。
守人の命にかけて、仕えさせていただきます』
『はぁはははぁっ……、命までかけてなくともよい。
そんな大層な頼みではない』
『ははっ‼』
『リスター・エンバールが我をここに封印する祭儀の途中で、ここに友の一人が攻め入った。
軍勢を相手に一人でここにたどり着いたが、乱戦の中で斬られ、この泉に沈んだ。
そして、その直後に、封印術が発動した……』
アルスのこの話自体は事実。
だが、その友はこの泉から既に消滅していた。封印術の瘴気と淀みはその亡骸さえも瞬く間に溶去した。
それを聞いた四人は状況を察し、アルスの話の先を読んだ。
『それでは、その御方はまだ?』
その応問を聞いたアルスは心中で微笑む。
『ああ、まだ生きている。
……休眠状態だ。
傷はある程度癒えているが、封印術の余波を避けるために、自らの精神体を眠らせている』
その説明を聞いた四人は、勝手にその先を察し、ゴクリと喉を鳴らした。
『それでは、その御方も龍人様でございましょうか?』
『……そうだ。だが、腕輪は持たない。
その友の名はエイス。
遠縁の(半)
『おおっ』『ああっ!』『ええっ!?』『エイス様!?』
『そ、それではアルス様と同血なのでございますか……』
『そうだ。
やつはまだ生きている。
呼吸さえ戻れば、やつはまだ助かるはず……。
我はここまでだが、あいつだけは何としても助けたい!
それをお前たちに頼みたい』
それを聞いたイストアールは即答した。
『御意にございます』
イストアールは頭を下げた。三巫女たちも同様だ。
『最後にイストアールとも話せた。
感謝をするぞ』
しばしの沈黙の後、アルスは四人にそう伝えた。
アルスからそう伝えられ、イストアールは感慨無量な面持ちである。
『勿体無いお言葉にございます。
私の方こそ、これまでのご助力とご厚情に深謝いたします』
四人は泉の縁でひれ伏した。
『そうか。それでは、頼むぞ。
もう間もなくのようだが、これでもう思い残すことはない。
……では、さらばだ』
その別れの言葉を最後に、四人の頭から念話の経路が絶たれた。
一度、顔を上げていた四人が再びひれ伏した。
*
それから、十分ほどして、四人は立ち上がった。
イストアールと三巫女は深い失望感を抱いた。
だが、アルスの最後に立ち会え、そして彼の言葉を聞くことができた。
それは四人に例え様もない感動と幸福感も同時に与えた。
少し茫然とする四人の目の前で、それは起こった。
クレム聖泉の泉底が眩い光に包まれ、四人は目を開けていられなくなった。
泉底でエイスが封印術の完全解除を始めたのだ。
それから、一分ほど後にその輝きは収まった。
四人が恐る恐る目を開くと、美しく澄み切ったコバルトブルーの泉が眼前に広がる。泉底までクリアに見える。
四人は一瞬息を呑んだ。
イストアールと三巫女は、その目でアルスの消滅を確認した。
イストアールは聖泉に目を向けたまま、しばし呆然としてしまう。
────そこに、巫女アミルがいきなり泉に飛びこんだ。
イストアールとエリルはそのアミルの目的が分からず、驚き、困惑する。
だが、アミルに続いてすぐにリーロも泉に飛びこんだ。
残る二人は飛びこんだ二人の姿を目で追いかける。
そして、懸命に潜る二人の先の泉底にその答を見つけた。
薄っすらと肌が輝いているかのようにも見える、遠目からも美しい男性が泉底に横たわっている。
アミルとリーロはその男の傍に着き、状態を確認している。
二人は視線を合わせて頷くと、男の上半身を起こし、その両脇に頭と肩を入れた。
二人はエイスの両脇を首で抱えるようにして、上方へと泳ぎだした。
間もなく、泉面からアミルとリーロが顔を出し、大きく息をする音が聞こえた。
二人が縁にたどり着くと、四人でその男を抱えて、近くの岩部まで運び、そこに寝かせた。
もちろん、泉底にいた男は自発呼吸していない。
イストアールが声を発するよりも先に、アミルが男の鼻を抓み、唇を重ねた。
彼女が人工呼吸を始めたと同時に、リーロが男の胸の上に乗った。
アミルの人工呼吸に合わせて、リーロが男の胸骨を何度も押していく。
ずぶ濡れの二人の巫女装束からは豊かな胸が透けて見えているのだが、二人はそんなことは気にもしていない。
自発呼吸を取り戻させようと懸命に人工呼吸を続ける。
龍人と守人は、肺が溺水してもそれだけで死亡するようなことはない。
水を電気分解しながら酸素を取り込めるのだ。
肺に空気を送り込み、呼吸を助けていれば、呼吸はいずれ回復する。
意識さえ戻れば、龍人族と守人族は自力で肺中の水を引き出す力を持つ。
そこにエリルも加わり、三人が力を合わせて、エイスを休眠状態から覚醒させようと努める。
このエイスの状態は偽装ではない。
現状通りである。
エイスはアルスの肉体に受肉したが、その肉体は休眠状態────水中休眠状態。
エイスは仮想的に肉体を使うシミュレーションを行ってきたが、これから実体を始動させなければならない。
二世紀近くも水中に沈んでいた肉体を再始動して、覚醒するのはなかなかに大変な作業。
それを三人の巫女たちが助けてくれている。
十五分ほどが経過し、交代したエリルが人工呼吸をしていた時だった。
エイスの右手中指がピクリと動いた。
それに気づいたアミルがエリルの腕に触れて、注意を促した。
エリルが唇を離したタイミングで、エイスの胸が一瞬動き、「グッ」という声が漏れた。
次の瞬間、エイスの口から巨大なシャボン玉が膨らむように、コバルトブルー色の水が空中へと浮き上がっていく。
エイスが意識を取り戻し、自術で溺水肺から水を引き出したのだ。
かなり大きな薄蒼色の水玉になったところで、エイスの両目が開いた。
彼がその水玉を払いのけるように手を動かすと、その水玉は5mほど離れた所へと弾き飛ばされ、そこで飛散した。
ハァーッ……という大きな吸息が聞こえ、彼の呼吸が戻った。
エイスは傍にいたアミルの手に触れ、呟くように声を発した。
「ありがとう。
助かった……」
それだけ話すと、彼は再び目を閉じて、眠りについた。
彼は自発呼吸を取り戻している。
四人もその様子を確認して、大きく安堵の息を吐いた。
イストアールが手をかざし、透視術で状態を確認してから話しだした。
「200年近くも泉底にいて、この状態とはのぉ……。
エイス様だったか、驚異的な肉体をお持ちだ。
だが、胃も腸も空っぽだ。
これは体力切れの状態じゃな」
イストアールはしばらく考えてから口を開いた。
「リーロ、八人ほど衛兵を呼んできなさい。それと担架だ!
聖殿の二階の特別室を開けて、そこへお運びするように兵たちに伝えなさい」
「はい」
リーロは立ち上がり、小走りで洞窟の外へと向かった。
エイスは休眠状態からの肉体の再始動にかなりの体力を使った。
治癒と回復をほぼ終えていたとはいえ、エイスとアルスは栄養不足による肉体の衰弱を少々甘くみていた。
エイスは眠りながら、この四人が味方であったことに感謝した。
この状態で敵に襲われていたら、ただではすまなかっただろう。
無理をすれば、動けなくはなかった。
治癒と回復はほぼ終えている。
ただ、タンパク質、脂質、糖質、ビタミン、ミネラル等の栄養素が枯渇した状態では、活動できたとしても、高が知れている。
エイスが想定していた以上に体は重かった。
敵に囲まれたら、龍人術か守人術のいずれかを博打的に発動するのが精一杯だったろう。
*
エイスとアルスの想定した脱出シミュレーションは、見込みが甘かったのだ。
アルスも二世紀に渡る肉体の休眠状態からの覚醒過程を軽く見過ぎていた。
二人は意識下で、その見込みの甘さを反省し、互いに謝っていた。
万全の準備──のはずだった。
だが、肝心な詰めが甘かった。
二人にとってはほろ苦いデビュー戦になった。
無敵の龍人の肉体も、……(空腹による)体力切れには敵わなかった。
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