04 龍人の脳力


 突然、エイスの意識に変化が生じた。

 微かにあった体感が消滅し、思考力が急速に低下していく。

 意識が嫌な感じで揺れだした。


(ああっ……、これ……、そ、そうか。

 いよいよか……。

 アルス自身も消滅するんだったか)


 そこで、彼の意識は途切れた。

 長く白雲中にいた彼の意識は、静かにそこから消えていった。




        *


 それは、ほとんど忘れかけていた「痛み」

 ──鈍痛の感覚。

 意識下のあちこちに鈍痛を覚えた。


(なっ……なんだ!?

 嫌な感じの重い痛みが……)


 それは正に、痛みで我に返った……状態だった。

 彼がその謎解きをしようとした時だ。

 それまでの意識とは異なり、神経組織からの情報伝達を得られる。

 五感を通じて膨大な量の情報が流れ込んでくる。

 既に一度失ったその感覚に戸惑いを覚えながらも、彼の意識と思考がそれらを一気に処理していく。


 そこで彼はいきなり未知なる体験に晒された。

 五感の全てに神経を集中させながら、鈍痛の分析、脳内の活動状況、等々。

 多所からの情報や現状を一度に取り扱いながら、同時にそれらを観察、診断、分析、集約できる。

 一度に十以上の作業を同時にこなせるのだ──多重並列思考。


 突然、目を閉じているにもかかわらず、周辺を俯瞰視する映像まで飛び込んできた。

 上空から泉底に横たわる肉体を3Dスキャン映像のように観ることができる。

 さらに、泉底の地下の状況も別に観ることができる。


(これは、アルスの話していた並列思考……だな。

 肉体と意識が統合された……といことは受肉したわけか。

 ──だが、なぜだ?)


 エイスは並列思考化した脳機能を全開で働かせて、猛速で現況分析を進める。


(間違いない。受肉している)


 彼は脳機能を精査し、90%近くの脳活動域の獲得に成功したことを確認した。

 その残りの10%部分について調べようとした時だった。


『驚いた!

  エイス……早いな!

  もうおれの意識を発見したか』


 そうアルスからの声が響いた。


『アルス……。

  なぜおれに体を?

  おれはお前の交換条件を断ったんだぞ』

『最後の最後で気が変わったのさ』

『気が変わった?』

『おれはどうせもうじき消滅する。

  お前の言った通り、だからおれはおれの肉体を対価にして殺し屋を雇おうとしたんだ。

  理由はどうあれ、結果的にそういうことだ。

  お前はそれを拒んだ……。


  おれも気づいたんだ。

  ……お前が正しい!』


『それでいいのか……』

『ああ、それでいい。

  あの時からもう190年以上が過ぎているんだ。

  ここにずっと拘束されているために、時間感覚が完全に麻痺してしまっていた。

  リスターに復讐することしか考えられなくなっていた。

  やつがまだ生きているかどうかさえ分からないというのにな……。

  知らぬ間に、おれは亡者と化していた』


『いや、ここでの繫縛に耐えるためには、そこに執着するしかなかったんじゃないかな……。

  言い方は悪いけど、多少精神的に病むのは避けられなかったと思う』

『そうかもしれない』

『でも、肉体を与えるのは、別におれでなくともよかったんじゃないか?』

『そんなことはない。

  おれはお前が気に入った。

  このままでも、どうせ死に行く身だ。

  体だけでも、お前が自由に使ってくれ!

  おれの精神体が消滅すれば、封印は解かれる』


 エイスの了承を得ることなく、アルスの脳機能の90%が一方的に移譲された。

 アルスはエイスにそう話しても、断られそうな気がしたからだ。


 ただ、今の状況では、アルスは既に90%の脳機能を失い、10%未満の力と記憶の一部しかもう残っていない。

 そして、その90%以上はもう二度とアルスには戻らない。

 アルスの肉体はこれからエイスの思念体への最適化が始まり、同時にエイス向けに微修正されていく。

 それにより、封印術の効力が一層強まり、アルスは近々消えることになる。


 それでも、アルスはまだ十分な意識と一部の能力を残している。

 並列思考力からも分かるように、龍人アルスの脳機能の質と量は卓絶している。

 アルスはまだ今しばらく精神体としての活動力を維持する。

 彼がその余力を残したのには、いくつかの目的があったからだ。


        *


 それから、アルスの主導により、二人はいくつかの作業を開始した。

 第一ステップは、脳以外の肉体全域をエイスの精神体が精査して、掌握すること。

 エイスの精神体は生前の肉体を制御することはできても、アルスの肉体を扱えるわけではない。

 新たな肉体の末梢神経に至るまで網羅・掌握し、潜在能力を引き出さなければならない。


 しかも、最短期間で、だ。


 この作業は最優先事項。

 泉底に沈むアルスの肉体の封印が解かれ、彼が動きだせば、この洞窟の管理者たちもおそらく気づくだろう。

 洞窟の内外で兵が待ち構えている可能性もある。


 エイスは覚醒直後に、いきなり襲われることも想定しておかなければならない。

 赤子のようなヨチヨチ歩きでは、応戦することさえ厳しい。

 現状、洞窟の周囲を兵が取り囲むような状況ではないが、最悪の事態を想定しての事前対策が必要なのだ。


 次に重要な作業は、肉体と同様に、脳と脳機能の精査・掌握だ。

 アルスの脳は、地球人とは比較にならないほど高次だ。

 そして、龍人術と呼ばれる雷と炎の術、加えて聖守術が使える。

 アルスは五十以上の術を使っていた。

 アルスの見込みでは、肉体制御と龍人術と合わせて、全脳中の最低半分くらいは使えるようになっておかないことには、洞窟外でのリスクに対応できないらしいのだ。


 その他にも、肉体を再始動させる前にしておかなければならない作業がいくつかある。

 剣術と体術。襲われた際には戦わなければならない。



 エイスはその過酷なメニューを聞いて、一気に憂鬱になった。

 だが、それは杞憂だった。

 それらの作業を開始したのとほぼ同時に、龍人の脳力の高さを実感させられた。


 各作業に慣れてくると、エイスの脳はそれらの作業を全て同時並列処理できた。

 慣れてくると、感覚器官への対応には脳活動域の8%程度を割り当ることで対応できた。


 エイスが驚かされたのは、剣術や体術等の武術訓練だった。

 アルスに教えられた通りに脳内を段取りしていくと、仮想空間を脳内に映し出せた。

 VR的な仮想空間を脳内に再現して、そこで剣術、体術、槍術等々を訓練できる。

 脳機能の一部をもう一人の自分に割り当てれば、自分同士の対戦も可能。

 当面は、アルスがこれまでに戦ったことのある敵や鳥獣類を再現して戦うことにした。

 非常にリアルな脳内シミュレータ。

 ──龍人、恐るべし。



 ところが、この武術訓練で驚かされたのはアルスの方だった。

 先にアルスが龍人流の戦い方を手ほどきすれば、後はエイス自身がどんどんと先に進めていった。

 エイスの生前は謎だが、一般人とは到底思えない次元の基礎と適応力を持っていた。

 記憶がないにもかかわらずだ!


 脳内が活性化するにつれて、各作業レベルはスピードアップしながら、高次元化していった。



 一か月が経過する頃、アルスも驚くほどエイスは脳と肉体を扱えるようになっていた。

 特に剣術と龍人術は劇的に上達していた。

 シミュレータ環境であれば、エイスは封印前のアルスの再現体をも倒し始めた。

 十戦すれば、エイスが確実に六勝以上する。

 あくまで脳内バーチャル戦なのだが、それはアルスの予想を遥かに超えた次元の進歩だった。



 この作業は約三か月に渡った。

 ──その頃には洞窟内も賑やかになってきた。



        *


 ミクリアム神聖国ベルト地区コンフィオルは、ギロン山脈の麓まで30kmほどののどかな田舎町。

 人口は約八千人。住民の多くが守人族と人族の町。

 他の町には獣人族も多いのだが、この町には人族が多い。


 今やここはただの田舎町。

 だが、二世紀前までは聖なる泉の洞窟の町として知られていた。

 その泉こそがクレム聖泉。より正確には「元聖泉」。


 レミロレゾン龍神国の宰相リスター・エンバールの秘術により、そのクレム聖泉は龍人アルス・ギィ・リートの封印地にされ、その命を奪うために用いられた。

 嘗てはコバルトブルーの聖泉水を湛えた泉は、リスターの秘術により暗蒼色に濁った。

 そして、その淀んだ泉と瘴気のせいで、獣人族が近づかない場所になった。


        *


 コンフィオルの町の洞窟側には、五年前に旧聖堂を改築した聖殿と衛兵所が設置された。

 そこには、高位神官と三人の高位巫女、そして約五十人の衛兵が住んでいる


 泉の異変に最初に気づいたのは、高位巫女のリーロだった。

 瘴気の漂う洞窟内に入れるのは、守人族の神官や巫女等の巫覡ふげきだけ。

 三人の巫女は日替わりで洞窟に入り、泉の前に設置された祭壇に献花し、祈りを捧げる。

 この日の当番はリーロだった。


 彼女はいつものように祈りを捧げながらも、ある異変に気づいた。

 三日前に礼拝した時よりも、瘴気の濃度が下がった気がしたのだ。


 そこでリーロは防御術を一段強めて、水質を確認するために泉の縁と向かった。


 リーロは泉を覗き込んで思わず声を上げた。


「ええっ!? 泉中央の水の色が……」


 彼女は泉の中央部の水質がいつもの暗蒼色に、美しいブルーが混ざり合っているのを発見した。

 さらに、彼女は水面から漏れ出てくる瘴気量が減少していることも確認した。

 彼女は急ぎ洞窟を出て、聖殿へ走った。



 一時間後、泉の縁には老師イストアール(高位神官)と三人の巫女エリル、リーロ、アミルの姿があった。

 この三人の高位巫女は、その美貌から町では「三巫女」と呼ばれるほどの有名人だ。


 神官イストアールは泉の水をガラス瓶に入れ、守人術を発動した。


「おおっ……、わずかだが一部に聖泉水が混じっておるぞ」


 それは四人にとって一大事件だった。

 長きに渡り聖気を失っていた聖泉に回復の兆しが表れたのだ。


 だが、それを知っても、四人の顔色は一様に曇った。

 そう……、それは龍人アルス・ギィ・リートの死期が近いことを意味するからだ。


 四人は落胆し、頭を垂れた。

 これまで四人は龍人アルス・ギィ・リートの救出方法を探ってきた。

 だが、その大願はどうやらかないそうにもなかった。




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