02 白世界の声


 国立K大学医学部准教授、仙堂顕成せんどうあきのり

 日本では珍しい臨床医と研究医の二刀流。そして数少ないその成功者。

 彼はゲノム医科学分野において世界最先端を走り、天才と呼ばれる研究者だった。


 だが、不運にも爆発事故に巻き込まれてこの世を去った。


 肉体は荼毘に付されるが、彼の思念体(精神体)はなぜか漆黒の闇へと落ちていく。

 ────そこは無光の暗黒世界。







        ****




 ──暗黒の壁面から漏れ落ちてくる一筋の光。

 それは、暗黒の森の中に起こった小さな小さな変化だった。


 暗黒に深く沈み込み、消えかかっていたはずの男の意識がその光に鋭敏に反応した。思考回路がいきなり最大回転で稼働し、覚醒していく。

 五感から切り離されていた男の意識がそこにまぶしさを求める。

 とにかく明かりが懐かしく、恋しい。


 しかし、悲しいかな、そこに向かおうにも何もできることはなかった。

 手を伸ばすことさえできない。


(あ、あそこに行きたい!)


 長らく浮かばなかった「言葉」と「意思」が、突然頭に湧きだした。

 ないはずの手をイメージだけそこへと伸ばし、その光を掴もうとした。

 それはおそらく生物としての非常に原始的な本能からなのだろう。

 だが、それだけではなにも変わらなかった。

 なにも起こらない。


 それでも男は諦めない。

 存在が消滅しかねないほどに集中力を高め、心を溶かすかのようにしてその方向に進もうとする。


 すると、意識の軸が微かに動いたように感じた。


 次の瞬間、男はいきなり視界のようなものを得た。

 「黒の世界」から「白の世界」へ移動したような不思議な感覚。

 ふわふわの真綿が一面に敷き詰められ、柔らかな白光に包まれているかのような。


 だが、それは視覚のようなものでしかない。

 極めて薄く表層的なものだが、それは明らかに五感とは別の感覚。

 それでも、男はその得体の知れない感覚を貪るように味わう。

 久しぶりに感情が湧き上がる。


 その真綿か、雲か、霞か、……ふわふわから微かに何かが伝わってくる。


(こ、これは……

 み、水なのか⁉

 おれは水中にいるのか?)


 その白い雲のような何かから、非常に希薄だが五感に近い情報が流れ込んでくる。

 それは男に無上の喜びを与えてくれた。

 だが、男の漠然とした記憶の中に眠る五感とそれは明らかに異なっていた。


(これは……なんだろうか?

 手や足……指や肌のようなものは何も感じない。

 ──いや、それでも神経的な感覚に近いような気がする。

 だけど……まるで反応がない)


 そう、男のその状況分析は的確だった。

 男の意識は、見知らぬ脳の一部を間借りした状態の中で働いている。

 それは「半覚」か「念覚」とでも呼べそうなもの。


 男は無意識にその微かな感覚を手繰り、周囲の状況を探り出そうと努める。

 それは無の中での果てない努力とは違い、喜びも感じる。

 彼はその作業に没頭していった。


        **


 それから、男は二十日近い時間をかけて、懸命に探索を続けた。

 夢中で探り続け、その感覚から分かったことは五つ。


 ・ 周囲に微弱だが濃蒼色の薄光

 ・ 水中

 ・ 肉体のような微かな感覚 ──部分損傷あり

 ・ 呼吸停止状態 ──肺は溺水

 ・ 周囲の液体の比重が異常に高い


 そして、最後にもう一つだけ、男には確信的に分かることがあった。


 ──自分の知る肉体ではない。


 それでも、男はその肉体の探索を続けた。

 そこに何らかの目的や使命感があったわけではない。

 もはや、それは謎解きのようなもの。

 再始動した彼の思考回路は、単にその迷宮の出口を見つけたいだけだった。



        *


 それからさらに長い時間が過ぎた。

 男が最初に「無の暗黒」の世界を認識してから、既に半年以上が経過していた。


 その間に男はさらに現状分析を進めていた。


 ・ この肉体は仮死状態に近い

 ・ 損傷個所は非常にゆっくりだが、再生・回復している

 ・ 現状、脳の機能の2%未満しか使えていない

 ・ 損傷部の再生と回復、そして肉体活動を阻害しているのは周囲の液体

 ・ この肉体はかなりの長期に渡り、水の底に置かれてきた

 ・ 人の肉体と思われるが、どこか、なにか、得体のしれない違和感がある


 だが、同時に男にはどうしても理解し難いいくつかの謎も生まれた。

 最初にして最大の謎は、この肉体がなぜこの状況下に置かれているのか、である。

 男がなぜその肉体と結びつけられているのかは二の次だった。


 その肉体が少なくとも地球人でないことはほぼ確定的だった。

 地球人であれば、間違いなく、既に絶命している。単なる水死体のはず。

 だが、液体中にいながら、この肉体はどこからか酸素を得ている。


 そして、この周囲の水溶液が曲者だ。

 まるでこの肉体を拘束するかのように作用しているのだ。


 これらが意味するところは何なのか……。

 この謎を解くためのヒントが肉体のどこかに隠されていないか、彼はくまなく調べた。

 だが、その点に係わるヒントを何も捜しだせなかった。


 結局、男はまたこの調査を再開した。

 他にやることがない。

 またしても、それが理由だ。

 ──それと同時に、男はここで思考を止めてはいけない気がした。



        **


 最大の謎が解けないまま、時間はさらに流れていった。

 男もさすがにこの終わりのない作業に飽き飽きしてきた。

 脳機能の一部を得たとは言え、それだけと言えば、それだけ……のこと。

 その肉体で特に何かができるわけでもない。

 肉体の制御権は男の手にない。できることは限られている。

 そして、できることは既にほとんどやり尽くした。



 そんなある日──奇跡的な出来事が起こった。



『──áဘမágဒမó ắg ာမáóbūမó?』


 お、お、おおおっ!

 なんということだ‼

 男の中に音に近い何かが響いた。

 それも一度だけではない。

 ──何度も。


 だが、男にはその言葉の意味が分からない。

 まぁ、当然だ。それは地球言語ではなかった。


 しかし、男にとってそんなことはどうでもよかった。

 理解不能な言語であれ、そんなことは彼にとって大きな問題ではなかった。

 言葉であれば、何とかなるはず。

 男はそう考えて、嬉々としながら、必死に返事をした。


 当然ながら、両者の言葉は全く嚙み合わない。

 もちろん、会話(念話)は成立しない。するわけがなかった。

 相手が誰かも分からない。

 ただ、この肉体の中のどこかから聞こえてくる。


        *


 しかし……、予想していたよりも何とかならない。

 これはこれでなかなかに大変な状況である。

 先ずはこの言語障壁の乗り越え方を考えなければならない。


 男はその段取りを考える。

 ところが、男が言葉の壁についての対応を考え始めたところで、新たな事態が起こった。

 男の意識の中に写真のような静止画イメージが映ったのだ。


 それは巨大な城‼ ────サンタンジェロ城似の。


 直後に、『ッシシサッシュルァ』的な響きの音が響いた。


 男はこの状況についてしばし考えてみた。

 もしかすると、向こうがこちらに単語を教えようとしているのかもしれない。

 状況的には、おそらくそうなのだろう。


(おいおい……、憶えるのは一方的にこちら側かい!?)


 そう思ったものの、とりあえずそれを確認してみる。

 そう、できることは一つしかない。


『ッシシサッシュルァ』


 必殺のオウム返し。


『シュタルナァ! シュタルナァ!』


 なんだかフランス語とドイツ語の中間のようなイントネーションだが、違う。

 男にもそれだけは分かった。

 ただ、その抑揚から「そうだ」「正解」「素晴らしい」的な意味であろうことは想像できた。


 これで「ッシシサッシュルァ」と「シュタルナァ」の二語を何とか使えそうだ。


(あぁーっ‼

 嫌な流れだ。

 おれはこれからひたすら単語を憶え続けるのか……)


 ただ、他に方法はなさそうだ。

 こちらは相手のようにイメージを伝達する術と記憶を持たない。


(はぁー仕方ないか……。

 まぁ、どうせ時間だけはあるのか。

 しばらくは続けてみるしかなさそうだな)


 そして、男のその嫌な予感は見事に的中した。



        **


 その出来事が全ての起点になった。

 それから、実に二年という期間を経て、男は相手の男から三か国語を習得した。


 驚異的な言語学習能力である。

 おそらく男は元々から言語学習力が高かったのだろう。

 そうでなければ、成し得ないことだ。

 膨大な数の単語を憶え、独学で文法解釈をしながら、多言語を習得していった。

 相手の男もその「驚異的な精神力と集中力」を称えた。


 そして、この二年間を通して、男は自らの現状、そして今間借りしている肉体に起こった境遇の二つについて知ることになった。



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