そして僕は龍人になった【書籍化決定】
丘之ベルン
第一幕 眩耀の竜炎編
第一章
01 プロローグ
ゆら、ゆら、ひらっ
──窓からの風にカレンダーがそよぐ。
キッチン奥の二つの格子窓の間にはA3サイズのカレンダーがかけられている。
それは、お気に入りのmonbulanの動物カレンダー。
今月はコーギーの桃尻とオカメインコの並ぶ姿がかわいい。
見ているだけで、ちょっと癒される。
このカレンダーも今年で三年目。
来年のカレンダーも既に届いているのだが、まだ開封していない。
かけ替える時に捲りながら眺めるのが年末っぽくていいから──。
七曜表にはたくさんの予定やメモ、それにメッセージも書き込まれている。
そこに書き込みを入れるのは僕の担当ではないのだが、その日と週の書き込みはいつも何気に確認している。
そのちょっとした書き込みに癒されることが多いから。
**
街中を歩いていた時だった。
ドゥオォン──鼓膜を切り裂くような爆音と鋭い波動が体を突き抜けた。
突然視界中の全てが停止し、意識が瞬間的にとんだ気がした。
その瞬きのごとき刹那から我に返ると、いつもの動物カレンダーが目に映った。
なぜか、視界のど真ん中にそのカレンダーだけが浮いている。
他になにもない。
(──あれっ⁉
これ……おかしくないか)
そんなことはありえないはずなのに、そのことにようやく気づいた。
カレンダー中の動物たちがいつの間にかモノトーンになっている。
そのせいなのか、なんだか愛らしさに欠ける気がする。
動物たちの視線もどこか冷たい……。
なぜこんなにもカレンダーの表情が冷たいんだろう。
どうやらそれはこの七曜表のせい──空っぽ。
漠然とだが、それはありえない気がした。
なのだが、気がしただけで、その理由が分からない。
──空っぽではいけない理由が思い浮かばない。
そう思い悩んでいると、今度は意識が急に乱れだした。
まるでテレビの画面が乱れるように意識が揺らぐ。
揺れる意識の中で必死に自己診断を試みる。
だが、揺れの波間に意識が途切れる。
(く……っ、こ、これはヤバいやつじゃないかぁぁ。
こ、こ、硬膜下血…………)
途切れ途切れになる意識の中で必死に現状分析を試みる。
(い、いや……ぁ。
ち、ちがう。
──こ、これはもっと……マズいやつ)
そこで意識が途切れた。
***
突然、男の意識が戻った。
なにかがあったはずなのに、意識が途切れる前のことをなにも思い出せない。
──そこは真っ暗な世界、あるいはどこかの……底。
男の意識は純黒の世界に抱かれていた。
(これは……
今のこの状態はなんだ?)
理解し難い状況なのだが、思考回路は正常に機能している。
それなのに、手も、足も、……体のどの部位からも感覚が得られない。
それは、これまでに経験したことのない不思議で奇妙な感覚。
(──えっ⁉
これは……
なにをどうすればいいんだ?)
困ったことになにもできない。
それが男の現状。まだ目を書き入れられていないダルマも同じ。
普通ならパニックに陥るところなのだろう。
だが、不思議にそうならない。
暗黒の中に自我の感覚と意識、そして思考だけが存在する。
ありえない状況にもかかわらず、特に焦るわけでもなく、悲しみや怒りが湧いてくるわけでもなかった。
妙に冷静な自分を不思議に思いながらも、特別な感情は一切湧いてこなかった。
しばしの自己観察の後、男の中に一つの疑問が過った。
それは、今さらだが──
(──おれって……だれ⁉)
男はなにか重大なものが失われていることを本能的に察した。
そして、それはおそらく一つや二つではない。それだけは分かった。
そこでようやく危機意識が生じた。
ただ、それでも何かができるわけではなかった。
**
無の暗黒の中、男は記憶の糸を手繰ろうと努力し続けた。
だが、ほとんどの時間を無駄に過ごした。
そして、大切なものを失ったのだと悟った。
失ったのは「私の時間」。私という存在とその思い出。
懸命な努力により男が発掘できたのは、
おそらく日本人、
三十歳台半ば。
──だったのではないか、という漠然としたことくらいだった。
12歳くらいまでの断片的な思い出がモノクロ写真的に浮かんだ。
だが、それ以降の人間的な記憶は空っぽ。
思い出せないのではない。消失してしまった感覚だった。
これ以上いくら探してみても、事実的なものは何も掘り出せそうになかった。
結局、性別でさえ、怪しい。
単に、言葉遣いと断片的な記憶から「男」と判断しただけのこと。
それについての確たる証拠があるわけでもない。
「女性だ」と言われれば、「そうなの?」と返事するしかなかった。
思考力はある。……そう思われる。でも自信はない。
比較基準がないため、それさえ疑問形になってしまう。
結局、確固たるものはなに一つも見つけられなかった。
奇妙なことに、計算、歴史の復唱、読み書き等に問題はなさそうだった。
ところが、そこに肝心の「私」が存在していないのだ。
男には自分に係わる記憶や人間関係の記憶が完全に欠落していた。
授業内容的な記憶はあっても、学校的な思い出が消失している。
記憶喪失のような症状なのだが、それとは本質的に何かが異なる。
それでも、男はこの努力をさらに続けた。
疲れなどはまるで感じない。食事もいらない。眠くもならない。
単に他にすることがない。
──だから、その作業を繰り返すしかなかった。
だが、結果は何も変わらなかった。
それら以上のものは何も掘り出せなかった。
時に幼少期の断片的な記憶がピンぼけ写真的に浮かび出てきたが……
それらも、転んで怪我した膝小僧のアップ、卵の黄身を箸でつついている写真。
そんな感じのものばかりだ。
思い出とは縁遠いものばかり。
見つけられたのは全て写真的なものばかりだった────動かない。
そしてまた、男は自分探しを再開した。
この探索を続けても、重大ななにかを発見することはできないだろう。
なぜだか、そんな気がしていた。
それでも男は諦めなかった。
*
男はついにいくつかの動画的な記憶を探しだした。
そのいずれも数秒ほどの短いシーン。
そして、その一つが男に衝撃を与えた。
手術中────
ステント内挿術のカテーテルが挿入されていく。
──緊急手術っぽい。
そのシーンは執刀医の視点のものではない。
右側面上方の視点。
──男は医者? だが、執刀医ではない?
途中、作業がほんの少しもたついた。
──次の瞬間、大動脈瘤が破裂した。
それが、だれで、いつの出来事なのか、なにも分からない。
それなのに、コマ送りのそのシーンが男の意識と心を残酷に引き裂いた。
男はそこで記憶探しを止めた。
その短い動画を探り当てた直後、なぜか烈しい虚無感に襲われた。
男の思考回路は、それ以上の作業を拒否し、停止した。
※※※※
* 低侵襲とは、内視鏡やカテーテル等を用い、肉体に対して負荷・負担の低い診断・治療を行うこと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます